5円切手

郵便局に5円切手を買いに行った。
正確にいうと、別に5円切手でなくても、5円分の切手が欲しかった。それを6セット。
ところで5円切手の図柄って、どんなのだか知ってます?
答えは「こぶはくちょう」。青一色刷りのシンプルな図柄である。
ちなみに3円切手は「ほととぎす」。1円切手は「前島密」。
知ってますか、前島密。日本の郵便制度の基礎を作った人ですね。
10円より安い切手の券種というのは、この三種類です。
といっても、普段ぼくらが目にするのは、50円や80円、あと、せいぜい90円切手というところかな。
5円切手なんて、滅多に目にするものではないから、そこらのコンビニとかでは売っていないだろう。
大きな郵便局に行けばあるんじゃないかなと思って、本所郵便局に行ってきた。
本所郵便局は、普通郵便局、いわゆる本局です。だから土曜日も3時までは営業しているし、時間外の窓口もある。配達記録の郵便物を受け取りに、休みの日の夜に行ったこともある。
ぼくが着いたのは土曜日の午後4時過ぎだったから、もう通常の窓口は閉まっていた。
さて、時間外の窓口で、バイトの兄ちゃんらしき若い男に、5円切手があるかと聞くと、ないという。では1円とか3円の切手はあるかと聞くと、それもないという。
3時まではあったという。え、3時で売り切れちゃったの?
そういうことではなくて、要するに、3時まで開いていた通常の郵便の窓口では、低額の切手も扱っているのだけど、時間外になると、切手を置いてある棚か何かに鍵をかけちゃうらしい。それで、時間外の窓口では、売れ筋の(と言っていいのかな)切手しか取扱がないというわけ。
ま、確かに5円なんていうマイナーな切手を買いに来るというのも滅多にないことだと思うが、それにしても、モノはすぐそこにあるのに、時間外で閉めちゃってるから取り扱えないというのもねえ。真っ向サービス、とか言ってるくせに。
そのバイトの男に、じゃあ近くの店で扱っているところは知りませんか、と聞くと、それもないという。
それなら仕方ないな。5円掛ける6枚で、30円損するけど、代わりに10円切手を6枚買って、本所郵便局を出た。
蔵前橋通りを自転車で走っていて、郵便局からそう遠くないところにあるお酒屋さんの店先に、切手類の取扱の看板が見えたので、念のためと思って寄ってみた。
すると、ちゃんといるじゃないの、こぶはくちょうが、何羽も。
「郵便局に行ったら、ないって言われたんですよ」
「えっ、信じらんないねえ」
と、店のおばちゃん。
郵便局も、もう少し、サービス精神を考え直してください。
5_en.gif こぶはくちょう
普通切手券種一覧
http://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/standard/index.html

しゃっくりがなかなか止まりません

夜、部屋でお酒を飲んでいたら、急にしゃっくりが出て止まらなくなった。
しゃっくりなんて何年ぶりだろうか。
最初は悠長に構えていたのだが、いつまで経ってもおさまる気配がない。
せっかくいい気持ちで飲んでいたのに、それどころではなくなってしまった。
しゃっくりを止めるには、誰かにわっ、と言って驚かせてもらうのがよい、ということに、世間ではなっている。だがこちらには、その誰かがいない。
googleでしゃっくりを検索してみた。
しゃっくりがなかなか止まりません。何かよい治療方法は?
治療法 (物理的療法)
 薬物療法を開始する前に,まず物理的療法を試みる。
 スプーン1〜数杯の粒状砂糖の嚥下,舌の牽引,眼球圧迫,氷水の急激な飲用,胃部冷却,総頸動脈圧迫法,深吸位での呼吸停止,再呼吸(CO2混合気の吸入によりしゃっくりの頻度が抑制。紙袋で約5分間呼吸。ビニール袋は鼻孔にくっつくので使用しない。),驚愕,カテーテル等による口蓋垂・鼻咽頭の刺激等がある。また神経ブロック法や,頑固な症例には横隔神経の切断法も行われる。(福岡県薬剤師会)
http://www.jp-info.com/fukuyakuqa/qa01/qa01_09.htm
あいにく今、うちでは砂糖を切らしている。
舌の牽引とか眼球圧迫というのはどういうふうにすればいいのだろう。舌をつまんで引っ張ればいいのかな。いま飲み食いしたものを戻してしまいそうだ。
氷水の急激な飲用。氷水の中に焼酎を入れたものなら、さっきまでずっと飲んでいたのだが。胃部冷却というのもあるのだから、要するに、とにかく冷たいものを飲んで胃を冷やせということなのだろう。
それで、冷蔵庫からビールを取ってきてぐいぐい飲んだ。なんだかさっきより酔いが回ってきているような気はするが、しゃっくりのほうはおさまる気配がない。
紙袋で呼吸というのもやってみた。ビニール袋より紙袋がいいというから、書類を入れる大きめの紙袋を口と鼻の周りに当てて、何度も息を吸ったり吐いたりする。ぼくはまだやったことがないけれど、シンナーというのはこうやって吸うものなのだろうか。
しかし、それでも、しゃっくりは止まらないのだった。
こんなにしつこいしゃっくりなど、いつ以来だか、ちょっと思い出せない。
なんだかどうでもよくなって、ふてくされて横になってしまった。もちろん、しゃっくりを続けながらである。
朝、目が覚めてみると、いつの間にかしゃっくりはおさまっていた。
結局、しゃっくりを直すには、酔っ払って寝てしまうのが一番いいようである。
その日は一日じゅう調子が悪かった。

きょうの居酒屋料理

ここ2、3日暑い日が続いたので、冷奴ばかり食べている。
両国駅前の名もない焼鳥屋で飲んでいて、何の気なしに冷奴を頼んだら、薬味にミョウガが乗っかっていた。
さあ、どれくらい振りにミョウガを口にしただろう。そういえば、これも夏の風味だ。
店を出て、もう少し飲み足りない気分だったので、何かつまみになるものでも買って帰ろうと思ってコンビニに寄った。
すると、豆腐の棚の近くにミョウガが置いてあるのが目に入った。
それで、うちに帰ってミョウガをざくざくと刻んで、豆腐の上にたっぷりと乗せて食べた。
単純な話だけど、これがよかった。
それ以来、今度はミョウガの量を少し減らして、青ジソを刻んで乗っけてみたり、ショウガを下ろしてみたりと、いろいろバリエーションをつけている。
ともあれ、豆腐にミョウガという組み合わせが、ここ数日のマイブームといってよい。
大仰に書くほどのことではないけれど、ミョウガをたっぷりと乗せて食べる豆腐のおいしさというのが、新鮮な発見だった。
そういえば、子供のころ、ミョウガをたくさん食べると忘れっぽくなると言われて、あまり食べさせてもらえなかったことを思い出した。
今ではミョウガを食べなくてもじゅうぶん物忘れがひどいから、遠慮なくたっぷり食べる。
同じ店で、ナス酢味噌というのを頼んだら、これが妙にうまかった。
ナスを縦半分に切って、酢味噌を塗ってオーブンか何かで両面を焼いただけのものである。
が、酢味噌の部分が軽く炙られてちょっとグラタン風になっているのもよかった。
だいたい、ぼくはナス好きである。
それで、スーパーで買い物をしていたら、ナスが安く出ていたので、さっそくうちで、そのナス酢味噌というのを作ってみようと思い立った。
といっても、酢味噌は市販のものを買った。
今の部屋にはオーブンもオーブントースターもないから、魚用の焼き網の上に、半分に切ったナスを並べて、いったん切り口のほうを下にして焼いてから、頃合いを見てひっくり返し、酢味噌をスプーンでなすりつけた。
結果的には、あんまり上手くいかなかった。片方ずつ時間をかけて焼くよりも、オーブントースターなどで、全面を一気に焼くのがよいのだろう。
そういえば、ナスも夏の野菜だ。
5月の連休に実家に帰ったとき、うちにはささやかな家庭菜園があって、普段は母親が世話をしているのだが、そのときくらいは、ぼくも家庭用の耕運機で耕して畝をつくったり、苗を買ってきて植えたりと、多少は畑仕事をしていた。
ナスの苗も、家族の人数にはそぐわないくらい、たくさん植えてきたから、順調に育てば、今年の夏も、もういやというくらい、自家製のナスにありつけるはずだ。
ナス酢味噌は自分んちで作るのはあきらめて、焼鳥屋で食わせてもらうことにしよう。
余ったナスはどうしようか。
酢味噌のほうは、マグロブツでも買ってきて、ヌタでも作るか。

“きょうの居酒屋料理” の続きを読む

再考:近代日本の絵画でわしも考えた その2

話はいきなり戦後に飛ぶが、主に実験工房関係の作品を集めた部屋がある。
例えば大辻清司や北代省三の構成的な写真作品などが展示されているのだけど、「近代日本の絵画」って言っておきながら、写真はないだろ、という話になった。
写真だけでなく、天井からは北代氏制作のモビールが吊り下がっている。
戦後の美術を語るには実験工房は外せないから、絵画作品じゃなくても仕方ないんだろう、と納得してさらに順路を進むと、菊畑茂久馬や池田龍雄、松澤宥といった作家たちの作ったヘンテコなオブジェが目に入ってきて、こうなると、案の定といおうか、絵画という括りからはどんどん逸脱してくる。
やはり戦後の美術となると、絵画という枠には納まりきらないのか。
近代日本の絵画、といいつつも、どうしても立体作品を参照せざるを得ない。
しかし。ふと思うんですが、絵画といいつつ立体作品もオッケーなんだったら、彫刻とかはこの範疇に入らないんですか。それこそ彫刻家の人たちは昔っから立体作品を作ってたと思うんですが。
という素朴な疑問が浮かんだのだった。
入場した時にもらったチラシを見ると、
「絵画の物質性が強調されるようになると、やがて平面を越え空間全体に向かうオブジェが登場するようになります」
なるほど。オブジェってのはもともと絵画から生まれたものなんだな。言い換えると、画家の人が作る立体作品がオブジェということになるのかな。
でも、なんかなー。画家の立体作品が絵画の範疇に入ってきて、彫刻家の立体作品が入らないって、それでいいのかな。人を生まれでサベツするようなもんじゃないの。
逆に言えば、彫刻家の描く平面作品というのがあったら、どういう扱いになるのか(彫刻のためのデッサンは描くだろうって言われたけど)。「近代日本の彫刻」って展覧会があったら、そういう作品も出していいのかな。
そういえば、いわゆる近代美術とか現代美術って、だいたいは絵画の領域のお話じゃないですか。彫刻から生まれた新しい流れって、あんまり思いつかない。これは何かわけがあるんですか。
一方で、例えばこないだの「六本木クロッシング」みたいに、現代美術を総花的に集めた展覧会に行くと、ほとんどの作品がインスタレーション形式だったりするでしょう。
ああなると、元は絵画なのかどうなのかなんて、あんまり関係ないような気もするし。
今から50年後くらいに、「近代日本の絵画」みたいな企画展をやるとしたら、どういう感じになるんだろう。果たしてそういう括りができるのかな。

再考:近代日本の絵画でわしも考えた

タダ券があるというので、「再考:近代日本の絵画」という企画展を見に、木場の東京都現代美術館に行ってきた。
この企画は、ここ都現美と上野の東京芸大美術館の2館共同で開催しているのだけど、展示の順番からすれば、先に芸大美術館に行ったほうがよかった、ということに、会場に着いてから気づいた。というわけで、最初の展示室に入ると、いきなり第五章になっているという中途半端な状態だったわけです。
この展示室では、昔の芸大出の画家たちが卒業制作で描いた自画像が壁面にずらっと掛けられている。そういえば、3月に見た「MOTアニュアル2004」で、この部屋の同じ壁に北島敬三さんの「PORTRAITS」という写真作品が展示してあったんだけど、この顔の並びっぷりは、何か企画した人が意識したんでしょうか。ある意味、それぞれがお互いの展示の批評みたいになっているような感じもしないでもないですが。
順路をどんどん行くと、今度は明治期の町並みや人々を描いた作品がいろいろ展示してある。
同じ時代に描かれた油彩画と日本画が並んでいるけれど、どうして油絵で描いた日本人の顔とか日本の風景って、あんなに暗くて重苦しいんですか。あるいは社会批判的な意図でも入っているのか?と勘ぐってしまうくらいなんですが。それなのに、隣りの日本画のほうは、明るくて、軽やかだったりする。女の子も結構かわいいし。これだったらこの時代に住んでもいいなあって思うくらいなんだけど、でも油絵のほうの世界には住みたくないなあ。この差はいったい何なんでしょうね。
というようなことを、同行のTさんに話すと、そのころ日本で絵画を教えていた西洋人が、印象派以前の暗い色調のスタイルの人たちだったから、という。
なるほど。日本人が西洋の美術を学ぼうとして呼んだ外国人がひと世代前の人たちで、それに倣って描いた絵があんな暗いものになってしまった。一方、同時期のヨーロッパの美術は、逆に日本の美術に影響を受けて変容していたわけですね。
ところで印象派に影響を与えたのは、正統的な日本画じゃなくて、大衆的な浮世絵のほうですよね。でもこういう展覧会では、日本画はあっても浮世絵は出てこないというのは、やっぱり芸大では浮世絵をやらないからなのかなあ。
この日本画なんて、ちょっとアニメっぽいですよね。セル画っぽいというか。明治に描かれたものなのに、あんまり古さを感じない。こっちの油彩画のほうは、いかにも古臭く見えるのに。日本画とアニメっていうと、村上隆をふと思ったりしますが、実は昔から日本画ってアニメっぽかったんですね。
(たぶん続く)

live n_ext

久し振りに青山のスパイラルに行ってきた。
いま初台のICCでやっている「ネクスト―メディア・アートの新世代」展の関連企画で、「ライブ・ネクスト」というコンサートをスパイラルホールでやるというので、ノコノコと出かけてきたというわけです。
本展のほうはまだ見ていないし、出演する人たちについてまったく予備知識なしに行ったのだけど、正直言って、思っていたほどあんまり面白くなかった。
と言い切ると、アーティストの人たちに悪いので補足すると、どうもその日、ぼくは体調がいまひとつで、昼間っから眠たくて仕方がなかった。
ということで、今回のライブでも、大音響の中でいきなりウトウトとしてしまったのだが、それがまた最初に出てきたエキソニモという人たちが、光る電球を天井からつるして、振り子みたいに左右にぶらぶらさせるものだから、そういうのを見ているうちに余計に眠たくなったのかも知れない。
今回出てきた6組のうち、印象に残ったのは、徳井直生さん、澤井妙治さん、堀尾寛太さん、といったところ。プロフィール見ると、みんな若いですね・・・。
徳井さんの作品は、思わず、作品、と言ってしまったが、本人が会場のどこかでパフォーマンスをしているのか、よく分からなかった。ライブというよりも、むしろ音が付随した映像作品に見える。音としては静謐なのだけど、映像とあいまって不思議に引き込まれていった。音も絵もすごくよく考えられて作りこまれている、という感じ。それも、作った、という過去形で語られるような一回性のものではなくて、アルゴリズミックなものなんだろうけど。
澤井妙治さんのパフォーマンスは、今回出てきた人たちのなかで、一番体を張ってやっている。マイクに向かってヘンな声を出してものすごく変調させたり、どこでどうしてああいう音を出しているのかよくわからないが、とにかく忙しそうに何かのツマミをひねったり動いたりしている。音的にはむしろアナログ的な感じ。が、それが耳の奥の快と不快のキワキワなところをいじりたおしていく。この人は特に映像は使っていなかった。が、体の動きがあるから映像はなくても別にいい。
最後の堀尾寛太さんは、クリップの切れ端を磁石?でカタカタ言わしたり、色紙をガサガサやってクシャクシャに丸めたり破いたり。それをやっている手元をスクリーンに大写しにしている。それまで出てきた人たちが、やたら大音響だったりノイジーだったりしているのに比べて、日常的なモノがかすかな音をたてる現場をクローズアップするのは、不意をつかれる思いがした。そのうちに、音も映像も実際の動きを一回コンピュータで取り込んだものを微妙にずらしたり加工したりしていて、そのズレ感がいい。
まあ感想はそんなところですかね。この類の音楽というか音響を普段聞きなれていないものだから、的を射たことを言っているか自信がないけど。

物語が、始まる

三十も過ぎると、自分の年を意識することが多い。
老化とまでは言いたくないが、肉体的にピークを超えたんだな、と感じずにはいられない。
例えば、毎朝ひげを剃る。
が、特に人と会う予定のない週末など、二日ほど続けてひげを剃らないときもある。
あるとき、2、3ミリほど伸びたひげ面の顔を鏡に映してみて、あごひげの中に、ほんのわずかだが、白髪のひげが混ざっているのに気づいた。
そうか、そうなのか・・・、という思いがした。
それ以来、白髪に気がつくたびに、毛抜きで抜く習慣がついてしまった。
ま、ひげの白髪などはまだ些細なことだが、何もしないで放っておけば、毛量は少なくなるし、体重は増える。何とか食い止めなければ、と、無駄なあがきをすることになる。
この前の連休は実家に帰っていた。
実家で犬を一匹飼っていて、普段はぼくの母親が世話をしているのだが、帰省したときくらいは、ぼくも餌をやったり散歩に連れ出すこともある。
ぼんやりと犬と遊んでいて、何気なく顔を見ると、犬のひげの中にも白いのが何本か混じっているのに気がついた。
いや、これは、もともとこういう色だったのだろうか?よく覚えていない。
また、犬のひげとヒトのひげが、解剖学的に同じものなのかどうか、それも知らない。
しかし、この犬も、うちに来て5年半ほどになる。
よく、犬の1年は人間の何年分にあたる、という言い方をするけれど、そうすると、うちの犬も人間の年にすると、40近くになっているのだろうか。
とすれば、ひげに白髪が混じっていても、おかしくもない年なのだ。
近所の親戚のうちに行ったら、庭先でそこの飼い犬がぐったりと寝そべっていた。
もうご老体なのだ。息をするのもやっと、という風で、近くに寄ってもほとんど反応がない。
昔は、そのうちの前を通り過ぎるだけでも、ものすごい勢いで吠え立てられたのに。
うちの犬も、いずれはああいう姿を見せるのだろうか。
そもそも、犬とヒトとではライフスパンが違うのだから、犬を飼っていれば、遅かれ早かれ、その死を見届けなければならない(そりゃあ、ぼくだっていつ死ぬかわかったものではないが、それはさて措く)。
犬よりもずっと命の短い動物だっている。例えば、ねずみをペットで飼っている人がいるけれども、生き死にについてはどう思うものなのだろうか。最初から、すぐに死んでしまうものだと割り切って飼うのだろうか。ぼくは飼ったことがないからよくわからない。
犬の場合は、人と心を通じ合っている(ように見える)から、その老いや死について、余計にセンチメンタルになるのかも知れない。
できれば、犬も人間と同じくらい長生きできればいいのに。
でも逆に、もし、犬の寿命が生まれてから1年ということになったら、いったいぼくらはどんな思いをするだろうか。
そんなことを考えていたら、川上弘美の短編「物語が、始まる」を思い出した。
この主人公の女性は、近所の公園で拾ってきた「雛型」と、ひとときの奇妙な生活を送るわけだが、この小説では、本物の人間ではなくて、あくまで「雛型」だったけれど、もし人間の寿命が人によって全然違っていたら、つまり生まれてから少年になり、大人になり、そして老いていくまでの時間が、ある人は1週間だったり、またある人は10年だったり、あるいは千年だったりしたら、人と人はどんなふうに出会って、恋をしたり、一緒に暮らしたりするのだろう。そんなことを思った。

cover

出来心

団子坂下のおせんべい屋さんで柿の種とおせんべいを買ってきた。
この前書いた、タワーレコードのキャンペーンでスケッチ・ショウの二人と坂本龍一が店先でおせんべいやお団子を食べていた店です。
タワーレコードのポスターを見るまでは、何の気なしに店の前を通り過ぎていたのに、さっそくせんべいを買いに行って、ほお、この店かあ、などと感心しているのだから、われながらミーハーだなと思う。
といっても、さすがにせんべいを買うためだけに千駄木まで出かけてきたわけではありません。
おせんべい屋の近所にある谷中カフェに行って、また立川こしらさんの落語会を見てきた。われながら物好きだなあと思う。
取り急ぎ当日のネタの覚え書きをしておく。
まずAVにこしらさんが出演した(そうだ)ときの話をまくらにして、「出来心」。このへんにちょうちん屋ぶら左衛門さんはいらっしゃいますか。ぶら左衛門はおれの親父だよ。って、なんだかよくわかりませんが。そして二本目は、ひたちなかに営業に行ったときの話をまくらにして「寿限無」。
それから今度、吉本興業所属のヨイショなんとかという芸人(誰だ?)と、こしらさんと秋葉監督(誰だ?と思うだろうが)の三人が組んで、コントだか何だかをやるんだかどうだか、という微妙な前説が落語の間にあり。
さて、このサイトを見ると落語に行ってきたという話が多いが、落語のどこが面白いかというと、まあ、言ってしまえば、それほど面白いわけじゃない。
が、これは落語だけじゃなくて、どうも最近、年を取ったせいか、滅多なことでは大笑いしない人になってしまった。
高校生の頃や、大学に入ってすぐの頃は、決してそういうことはなかった。
お笑いの人たちの舞台を見に行って、腹をよじるようにして笑っていた。
まあこのへんの分析はさて措くが、とにかく面白いから、あるいは大笑いするから、といった理由で落語を見に行っているというわけではない。
ではなぜ落語に行くのか。
落語のいいところをひとつ挙げると、寄席や落語会に行って、混んでいて座れないという思いをしたことが滅多にない。
ふらっと出かけても、たいてい席が空いている。チケットを取るのに、何ヶ月前から苦労して予約したりする必要がない。
ではなぜいつも空いているのか。
やっぱり面白くないからですかね。
こんな結論でいいのだろうか。いや、こしらさんの落語は面白いよ(と言っておく)。

馬喰町じゃねえ

連休も終わって、今日から出勤という方も多いだろう。
今年はいい具合に祝日が並んで、カレンダーどおりでも5連休となるし、中には、前後に有給を取って11連休とした人もあるようだ。
ぼくは4月30日に有給を取ったので、29日から5月5日までの7連休ということになった。
7連休、と言葉にしてみれば、そんなに長く休んだのかと思うが、実感としては、過ぎてしまえばあっという間のことである。ま、これは多くの人がそう感じていることだろうが。
5月になって、些細なことだが、実はひとつ困ったことがある。
これまでも何度か書いているが、うちから会社まで歩いて大体5、6分で着く。
これは、自宅に近い勤め先にしたのではなく、今の仕事を始めるにあたって、思い切って勤め先に近いところに引っ越したのだ。
会社までの途中にセブン-イレブンがあって、行き帰りに寄り道していくことが多い。
何を買うかというと、朝はペットボトルのお茶やサンドイッチ、帰りに東スポとか、そんな程度だ。それでも、店の外でオーナーに出会っても挨拶されるくらいだから、こちらの顔も覚えてくれているのだろう。
さて、そのセブン-イレブンが、この4月30日をもって、閉店してしまった。
こうなると、まず毎朝の買い物に困る。
別のコンビニに寄って行こうと思うと、わざわざ遠回りして行かなければならない。これから暑くなって、外に出歩く時間を少しでも短くしたいのに。
それに、毎朝店を覗くのが半ば習慣になっていたので、会社に着いてもなんだか間の抜けた感じがして、どうも腰の据わりが悪い。コンビニというのは、習慣性のあるものだと思う。
しかし、新規に開店するコンビニは多いけれど、閉店するというのは、しかも業界のガリバーであるセブン-イレブンが店を閉めるのはあまりないことなのではないか。
どういう事情があったのか知らないけれど。
店先にオーナーからの張り紙があって、この店は畳むけれど、馬喰町で新しい店を開くからご利用ください、とある。と言っても馬喰町じゃねえ。

紺屋高尾

池袋演芸場の下席昼の部に行ってきた。目当てはトリの林家錦平さんである。
錦平さんといえば、去年の11月にも鈴本でトリを取っていたのだけど、ぼくが見に行く前に鈴本が火事になって休業してしまった。
これまで錦平さんの落語は、鈴本の独演会で1回、ねぎし三平堂で1回、そして黒門亭で2回聞いているけれど、定席のトリというのは、実は初めてだ。
今回の錦平さんのネタは「紺屋高尾」。
絶世の花魁、高尾太夫に一目惚れした紺屋の職人久蔵は、高尾との一夜のために給金を3年がかりで貯めた15両を持って吉原へ向かうが・・・というお話。
いいですねえ。うまいですねえ。
錦平さん、こういう花魁とか、女の人が出てくる噺がいいですねえ。
廓噺といえば、前に錦平さんの「五人廻し」を聞いたことがあるけど、これもよかった。
ただ、五人廻しのときは、客の5人のキャラの演じ分けの驚きというか、上手いなあっていう感じが先に来たけれど、今回の紺屋高尾は、もっと自然に引き込まれていく感じだった。
そういや、微妙に師匠の三平さんのモノマネを入れてましたな。
錦平さん、今度は6月にやはり池袋演芸場で独演会をやるらしいし、5月には黒門亭にも出るみたいだし(きのう届いた東京かわら版に出ていた)、すごく楽しみだ。
錦平さんのプロフィール、インタビュー
http://www02.so-net.ne.jp/~cozyhall/gallery/event/yose/Kinnpei1.html