資源ごみの日。古新聞と空き缶、空き瓶、ペットボトル、段ボールを玄関前に並べておく。空き缶と空き瓶は早々に収集されていた。他は残して外出。
出掛けは少々肌寒いかなと思ったが、歩いているうちに気にならなくなってきた。
桜橋を渡って台東区に入る。
隅田公園の梅の花が美しい。隅田公園とだけ言うと、墨田区側も同じ名前で紛らわしいが、浅草側の話。
瀧廉太郎の『花』の歌碑があった。この歌の花を桜のことだと思い込んでいるが、こんなに見事な梅に囲まれているのだから、実は梅の花ということはないか。
気になって一応調べてみたら、二番の歌詞に「見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う 桜木の」という一節があるので、やはり桜の花のようだ。残念、というのも可笑しいけど。
ちなみに『花』の作詞は武島羽衣。ふーん、『美しき天然』の詞もこの人なのか。
待乳山聖天の下を通って、千束から入谷、鶯谷に。
山手線に乗って池袋で下車。タイムズ スパ・レスタに。
時刻は10時半。先日からレスタが早朝営業を始めたというので、早起きして出掛けようと思っていたのに、結局この時間になってしまった。
浴室に午前の陽光が差し込んでいる。出遅れたと言っても、まだ客の数はまばらで、実に気分がいい。
サウナ室のテレビにKinKi Kidsの二人が出ている。普段テレビを見ないので、久し振りに彼らを見たという気がする。光一氏がジャイアンツの鹿取の名前を出していて、彼らは私よりいくつも若いはずだが、同じ時代を生きた人たちだなと思う。
午後からタイ健式の施術を受けた。馴染みのセラピストだが、施術をお願いするのは、ほぼ二ヶ月ぶりである。
足の裏を押されている時、不意に、甘いものを食べたでしょう、と言われた。実は前の日に普段滅多に食べないアイスクリームなどを食べたところだったので驚いた。食べたものが身体に表れて、診る人が診れば、それを感得することができるものなのだろうか。
例えばの話だが、前日×××をしたということも分かってしまうのだろうか。こういう人に隠し事はできないな、と思った。
施術後、コンフォートラウンジで休憩。まだ明るいうちにここからの景色を望むのは初めてである。
東池袋から市ヶ谷乗り換え、森下へ。黒田百合さん出演の開座アトリエ公演に。木曜に続いて二度目。
今回は断然良かった。木曜日は人形のように見えた百合さんが、意志を持ったひとりの人間として、全身で踊っていた。むろん、緊縛が進むにつれて、物理的な可動範囲は狭まっていく。が、その限られた動きの中で、百合さんは雄弁に語り続けていた。身体が拘束されても精神の自由は拘束されないのだ。
椅子に座ったまま縛られていく百合さんを見ながら、私は大野一雄の姿を思い出していた。木曜に見た時もその思いはあったが、今回はより強く感じた。
大野一雄は、晩年身体の自由が効かなくなって、車椅子の上で辛うじて手の先を動かしていた姿しか、生では見たことがない。正直、その時は意味がよく分からなかった。
が、あの時の大野一雄は、進行する老いと病のために身体は車椅子に縛りつけられながらも、自由な精神が全身に漲っていたのだ、きっと。あのわずかな手先の動きから、氏の全身全霊をかけた動きを見て取るべきだったのだ。
有末剛さんの緊縛を、老いや病と結びつけるのは、飛躍しすぎかも知れない。が、年齢を重ねるにつれて、われわれの身体は確実に、こう言ってよければ、緊縛されていく。大切なのは、緊縛と拮抗する精神の自由だ、と思った。
伊藤啓太さんの弾くコントラバスの弦と、緊縛の縄が重なる。まるで啓太さんと百合さんのセッションのようだ。百合さんは縛られながら自ら奏でているのか。
緊縛が解かれた百合さんは一旦視界から姿を消したようだったが、私の見方が間違っていなければ、この演出は的確だった。アオモリさんと渡部みかさんが縛られていく間、身を隠すことで、目の前の情景が、百合さんの脳内の劇場なのだと感じられた。一度そう感じると、縛られている二人と百合さんとの関係がはっきりした。二人を見ている百合さんは、縛られている自分の姿を俯瞰しているように見えた。
今日は行き掛かり上、電車で帰宅。森下から住吉経由、曳舟へ。
帰宅したら、玄関の前にペットボトルと段ボールが残されていた。13,464歩。