ニッポン放送をめぐるフジテレビとライブドアの争いも、フジテレビの番組を見ているよりずっと面白いのだから困ったものだと思う。
ま、それはともかく。
森美術館のアーキラボ展を見てきた。別にリーマンやライブドアの様子を見に六本木ヒルズに行ったわけではありません。


どんな展覧会かといえば、ま、ひとことでいうと、第二次大戦後、1950年代くらいから現代までの建築の模型やデザイン画がいっぱい展示してあるわけです。実現した建築もあれば、そうでないものもある。ていうか、実現していないもののほうが圧倒的に多いけど。
展示はほぼ年代順になっているので、都市や居住空間についての建築家や人びとの考え方、そして社会の状況の移り変わりがよくわかる。
もっとも、建築は圧倒的にモンガイカンなので、的外れのことに一方的にわかったつもりになったり、そうかそうだったのかと感心している可能性も大ありだけど。
今回の展示を見ていて、ふと思ったんだけど、そもそも、建築の展覧会といっても、実際には建築模型やドローイングの展覧会であるわけでしょう。それでいいのかなという引っかかりもあるのだけど。
まあ、美術館の中に本物の建物を入れるわけにはいかないのだろうから、致し方ないといえばそうなんだけど、普通の美術作品で、縮尺模型とかレプリカとかを見て喜んでいるケースって、あんまりないんじゃないのかなあ。
スーパースタジオっていうイタリアの人たちの「建築のヒストグラム」って作品を見ると、升目がはいった白い物体がいくつも並んでいて、ぼくには一見タイル張りのお風呂のように見えたけど、お墓やベッドに見えるという人もいることでしょう。スケールが建築模型にしては大きすぎて、ちゅーと半端やなあ、という感じなんだけど、解説を読むと「大きさのレベルを変えれば、住居、建築、都市のいかなるスケールにも適応可能な理論的提案です」って書いてある。
確かに建築って、模型やデッサンと実物との差がありすぎて、その中間項ってないでしょう。この家、建築家の設計のままだと大きすぎるから、半分に縮めて造っちゃえ、とか、そういうのってないよね。言い換えれば、建築には、実現した建築と実現しなかった建築の二種類しかない。
建物の大きさを規定するもの、あるいは都市の境界を規定するもの、そういった敷居をどんどん取り払っていったのが、脱構築の建築って理解でいいんですかね。
同じセクションにあるコープ・ヒンメルブラウって人の「オープン・ハウス」計画案。
デッサン画がより具体的に描き直され、それを基に小さなごく簡単な模型が作られ、さらにある程度の大きさをもったリアルな模型になっていく過程が展示されているのだけど、そのいちばん最初に書かれたデッサン画って、一見、なんだかよくわからない図形なわけ。なんだろうと思うと、建築家が目を閉じてグシャグシャとペンを動かしたのをそのままデッサン画にしたんだって。おいおい、オートマティスムかよ、と思ったら、解説にもそう書いてあった。
むろん、私は、シュルレアリスム大好物な人ですが、正直言って、違和感があった。この違和感がなんなのか、よくわからない。最初のオートマティスム的デッサンはいいんだろうけど、それが、だんだん肉付けされて、精緻化、具体化されていくプロセスが、ちょっと違うんじゃないかと思う。インテリジェントに過ぎるということなのか・・・。
例えば、ものすごい勢いでガンガンガンと窓とか壁とかがぶつかり合って、合体して、建築物が立ち上がりました、というのだったら、単純にスゴイと思うのだが。まあそんなわけないか。
(多分、つづく)
森美術館
http://www.mori.art.museum/html/jp/index.html
アーキラボ:建築・都市・アートの新たな実験展 1950-2005
http://www.mori.art.museum/contents/archilab/index.html

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