またいつものことだ。調子に乗って長々と書き始めたのはいいけど、だんだん息が切れてきて、結局は尻切れ。
まずは、このように自己嫌悪しておいて。
あれから1週間以上も経ってしまいました。小沢さんの大銀座落語祭出演から。
すでに記憶もかなり断片化しつつあるのですが、最後に、もう少しだけメモの棚ざらえをしておきましょう。もし、どなたでもこれをご覧になっていて、私の記憶に誤りがあれば、ご指摘をいただければ幸いです。
そういえば、今回の小沢さんの話を聞いていて、はたと膝をうつことがあった。
確か、この大銀座落語祭の前日?だかに小沢さんは熊本で宿泊していたというのですよね。そして、その小沢さんの熊本の定宿の向かいに、かつて豪壮な木造の楼閣があって、以前、それが取り壊されていくさまを見ていて悲しかった、というお話をされていましたよね。


その楼閣の名前が東雲楼。そう、「東雲節(ストライキ節)」の東雲。
この歌については、小沢さんのCDに収められているのを聞いたりして、すでに耳なじみだったはずなのだけど、今まで、ぼくはぼんやりと聞き流していたのだろうか。
東雲節の中で歌われている娼妓のストライキの舞台こそが、熊本にあったその東雲楼という楼閣で、かつて小沢さんは、それが取り壊されていくさまを見つめながら嘆息していた。
一瞬のうちに、どこかで聞きかじっていた、ばらばらの物語がひとつにつながって、そうかそうか、そうだったのかと、ぼくは、蒙が啓かれるような思いで、小沢さんの歌う東雲節を聞いていたのだ。
さっそく、東雲節について検索してみた。勝手にリンクを張らせていただく。
東雲節考
http://homepage2.nifty.com/tanosiki/v-enka-sino1.htm
働く女性と法の百年 東雲楼のストライキによせて
http://www.yuhikaku.co.jp/shosai/20c/19991202.html
前者のリンク先に引用されている添田唖蝉坊や知道(さつき)等の文章を読むと、もともとの「ストライキ節」は、救世軍の自由廃業運動に影響されて作られた歌ではあるが、実際のストライキ事件のことを歌ったわけではなく、歌詞にも東雲という言葉は出てこない。
それが、おそらく時系列的には「ストライキ節」成立より後のことだろうが、ほぼ同時期に起こった東雲楼でのストライキと重ねて伝えられる中で、いま小沢さんが歌うような東雲節に変化していったということなのだろうか。
後者のリンク先は、東雲節について触れたものではなく、東雲楼のストライキを起点にした考察だが、ぼくだって、はるか昔は法学部生だったはずだから、労働法の教科書をナナメ読みしたことくらいはあるはずなのだ。もう少しマジメに勉強していれば、東雲楼のストライキに別の経路で出会っていたかもしれなかったのだろうに。
いずれにせよ、当時の演歌(というより、あるいは添田唖蝉坊という個性に負うところが大きいのか、どうなのか)の社会性を改めて認識するとともに、地方のいち楼閣での出来事が、演歌を介して全国に広まっていった、その力とスピード感に驚かされるのだ。
まあ、これ以上続けると、大銀座落語祭での話からどんどん逸れてしまうので、このへんにしておくけど、添田唖蝉坊・さつき親子の仕事は、もっと、もっと追いかけたいと思う、今日この頃なのですよ。
(つづく)

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