緑図書館に行ってきた。
すみだ文化講座・座談会「玉の井・鳩の街」。講師はおなじみ小島惟孝先生。って、この人がおなじみなのは墨田区民だけか。
5月20日にも同じ題の座談会があったが、そちらは所用で聞き逃した。前回はどんな話だったのやら。
以下、今回の話の覚え書き。
小島先生は子供の頃、銘酒屋でかくれんぼをして遊んだり、そこのお姉さんからお菓子をもらったりしたこともあるそうだ。
むろん、この銘酒屋(めいしや)というのは、震災後に浅草から移ってきて、戦後はもっぱら特殊飲食店と呼ばれることになる、その類のお店のことである。
そんなお姉さんのことを、「中の人」という言い方をしていたそうだ。例えば、「あのおばちゃんは中の人だった」というふうに、平気で言っていたと。
通いつめたお客が女給さんと結婚することも珍しくなかったようだ。
印象的だった小島先生の言葉「街の裏通りは、銘酒屋の表通り」。
戦後2、3年のころ、隅田公園の、今のテニスコートのあたりに「消毒所」なる小屋があって、GIが下半身丸出しで行列をつくっていたという。小島少年たちは、そんなGIの様子を物陰から覗いていたそうだ。
そしてお決まりの「ギブ・ミー・チョコレート」そして「ギブ・ミー・チューインガム」。通り過ぎるGIに、米軍の支給品をねだると、何度かに一度は、チョコレートやチューインガムを撒いてくれた。これは、当時の子供たちは、それだけ食べ物に飢えていた、というよりは、そういうことを面白がって囃したてていた、ということのようだ。なんとなく、わかる気がする。
当時の雑誌によると、戦前、女性が10万円稼いで(1年間で?)も、手許には6千円程しか残らなかったものだという。というのも、部屋に置く花の花代、花瓶代、冬ならストーブ代、夏なら扇風機代、新聞代、お風呂代、そういった名目の支出が稼ぎから否応なく差し引かれるシステムになっていて、また、そういった権利はすべて、その筋の組の人たちが押さえていたのだという。
一方で、そのなんとか組というのは、表で使われているだけで、彼らを使っていたのは、大きなお屋敷を構えている、資本を出している人たちだったともいう。戦前、玉の井のあたりにはそういう屋敷もあったそうだが、そういう込み入った話になると、聞いているこちらにはよく分からない。
後半、当時の色街について調べている日比恒明氏を交えて質疑応答。
当時の女給さんの心のうちを尋ねる質問に答えて、小島先生曰く「気分がじめじめしている人は、たいがい結核になって死んじゃうんですよ。ほがらかにしていないと・・・」云々。印象に残る言葉。これを例の口調でひょうひょうと語る。
日比氏曰く、当時の女給さんは前借でしばられていたという話が多いが、少なくとも昭和33年頃、赤線が廃止になる前では、あっけらかんとして、お金のため、自分のためと働く人も多かったという。
当時の色街の案内図を探しているが見たことがない、お客のための地図は作らなかったのか?と小島先生。
日比氏答えて、今のように媒体のない時代、実際に客が店の前に行って、女の子を見定めないと話が始まらない。案内図を作っても仕方がない、とのこと。
そう言われれば、むべなるかな。現代のわれわれは、雑誌で、インターネットで見た情報を、むしろ確かめるために、そこに行く。それは転倒した態度か。
会場から、赤線廃止以後の女給さんたちはどこに行ったか、という質問。
日比氏によると、昭和33年までに前借を払えなかった人はチャラにするという取り決めが、カフェの組合であったのだという(逆にいえば、それまでに返させようとしていたとも取れるのか?)。
当時の女給さんについて、前借でしばられて悲惨な境遇にあったとばかり考えられがちだが、実際には、こんな楽な商売はない、と思っていたのも半数以上はいる。元の女給さんに話を聞いても、彼女たちは本当のことを語りたがらない。世間に流布している話は、脚色された話が多いという日比氏。それは、今のソープランドで働いている女性も同じで、今の仕事について、楽にお金を稼げるからいい、などと答える者はいないだろう、云々。
確かに、彼女たちに過剰に悲劇を投影してしまうのは、むしろ男の側の感傷、あるいはある種の欲望から発しているのかも知れない。
彼女たちを、ことさらに貶めるのも、ことさらに悲劇のヒロインにまつりあげるのも、どちらも彼女たちを特別扱いしているという点で、おかしい。
だから、色街を離れた女給さんたちの行方を、あまり詮索するのはやめておこう。
彼女たちは、決して特別ではない、どこにもいる普通の人なのだ、という点では、小島先生も、日比氏も一致していたように思う。
二人の見解がかみ合わなかったのは、当時の女給さんの待遇についての話。
小島先生は、前述したように、当時の雑誌記事をもとに、女給の稼ぎのほとんどは手許に残らなかったとした。
これに対して、日比氏は、少なくとも戦後の話として、女給と店側の分け方は4分・6分であり、女給のほうはその4分をまるまる取れたのに対して、店の主人はその6分の中から税金や必要経費、さらに女給の食費まで賄っており、それらを差し引いた残りは、やはり4分ほどではなかったか、と言う。
これでは、話のつじつまが合わない。あるいは、戦前と戦後で状況が変わったと理解すべきなのだろうか? そう思って尋ねたところ、やはり二人の間には、見解の相違があるようだ。
小島先生は、日比氏の話は、主として経営者側からの話であり、そこで働いていた人の側の話とは違うのではないかと指摘した。
一方、日比氏は、女給がひどい待遇を受けると、彼女はカフェの組合に通告し、そこから経営者たるカフェのおやじに話が行くという通報のルートがあったという。この組合ということについても、経営者の組合とは別に、女給の組合の存在について、二人の認識は必ずしも一致していないようだ。
本当のところは、どうなのか。たかだか半世紀前のことが、すでに茫々として、杳として知れない。
小島先生の生家は、戦前は地主や土建業で派手にやっていたようで、家の中に何人かの女中さんを抱えていたらしい。
ある日、小島少年は、ひとりの女中さんがしくしく泣いているのを目撃する。彼女は娼家に売られることになったのだという。
また、こういうこともあったそうだ。小島先生の祖父(祖母と言っていたか?)の兄弟分を名乗るおやじが、先生の家に入り浸って遊んでいた。が、そのおやじの娘は、娼家に売られているのだ。今から何十年前までは、道楽者の父親のために娘が身を沈めることもあったのだ。
先生が当時の色街や女給さんについて語る言葉の端々から、そんな幼時体験が顔を覗かす。
小島先生は永井荷風はお好みではないようだ。色里にファンタジーを映す視線は、先生には相容れないものなのだろう。