落語に「ねずみ」という演目がある。
左甚五郎が旅先の旅籠でこしらえた木彫のねずみを店先に出しておいたところ、これが動くというので評判になり、貧乏旅籠に客が押し寄せてくる、というような筋だ。
この噺に限らず、落語の中の甚五郎は、超絶的な技巧をもって木彫に生命を吹き込む、ほとんど神話的な存在である。
さて、高村光雲による動物の木彫を見ていて、これと甚五郎の世界とは地続きではないか、と思った。
落語の甚五郎話は、どこまでが本当のことかよくわからないけれど、例えば光雲の「兎」を見ていると、耳の長短はさて措き、旅籠の店先に集まる江戸の人々の感興もこんなふうだったのかなと思いが至る。


続いて足が止まったのは、やはり光雲の門下という米原雲海の「善那」。善那と書くとなんだかよくわからないが、要するにジェンナーである。種痘で有名な人ですよね。
ガラスケースに収められていなかったので、近づいてまじまじと見つめることができたのだが、やはりその生命感、緊張感に息を呑む。
高さ183.2センチというから、等身大なのだろうか。台座もあったろうから、ぼくからすると、やや顔を見上げるような角度になる。
この大きさ、角度・・・。ひょっとしてこれは仏像ではないかと思った。
ちょっとインターネットで検索してみると、この木彫を型にした銅像が上野の国立博物館の構内にあるという。その銅像について書かれた誰かのブログ記事を見たのだが、曰く「威厳を感じさせない像である」と。
銅像の実物を見ていないのでなんともいえないが、木彫を前にしたときのぼくの感興と違うのに戸惑う。木型から起こされた銅像からは、原型のたたえていたものがだいぶ抜け落ちてしまうのだろうか。
第三部ではロダンから強く影響を受けたとおぼしい作品が並ぶ。
しかし、あれは去年だったか、西洋美術館の「ロダンとカリエール」展でロダンの作品群を目の当たりにして、ブロンズや大理石から放たれる官能性にすっかりあてられてしまったことを思いおこすと、これらのロダン風の作品は、作家の志の高さに比して、申し訳ないのだけどロダンのデッドコピーにしか見えてこないのだった。
そうなると、やはり甚五郎的な江戸の職人芸や、木彫の仏像こそが日本の彫刻の真髄で、ヨーロッパの近代彫刻はそう簡単には消化できなかったということか。
そもそも、木彫のねずみがちょろちょろと動き出しかねない世界とでは、世界が違うんだろうけど。
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「日本彫刻の近代」展
会場: 東京国立近代美術館
スケジュール: 2007年11月13日 ~ 2007年12月24日
住所: 〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1
電話: 03-5777-8600(ハローダイヤル)
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「天空の美術」展
会場: 東京国立近代美術館
スケジュール: 2007年10月27日 ~ 2007年12月24日
住所: 〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1
電話: 03-5777-8600(ハローダイヤル)

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