入場するまで、なぜか本当に美術館の屋上で展示しているものと思い込んでいて。
なんなんだろう、この思い込みは。
全体に品がよくて、贅沢に場所を使っていて、さわやかで気持ちよかった。もう一回でも、見に来たらよかったな、と思ったのは最終日のこと。


* * *
版画による詩画集、版画同人誌なるものが、ある時期、日本のあちこちで刊行されていたのだ。
芸術表現としての版画、詩画集という出版形態、郵便というシステム、そういった要素が同時多発的に生まれて、ひとつに出会ったときに奇跡的に現れたメディアだろう。その熱は、いまでは再生も想像することも困難だ。
君と僕 僕と君
白と黒 黒と白
(版画同人誌のタイトルを見ながら)
どちらでもいい気がする。書物に右書きと左書きとが混在していたころは、あえてその混乱で読者を幻惑するという方法もあった、ということはないかな。
山百合は誰も見ていないところで大輪の花を開く。
誰も見ていないところでよくそんなことができるなと思うが、それは観察者の傲慢かと思い直す。
ダンサーは観客のいないところでは踊らないのだろうか。
とはいえ、誰の視線もないところでひとり花を開く山百合を想像するのは無意味だ。
実は山百合もぼくらのために花を開いてくれているのだったりして。
夏の庭、草いきれの中で、膝の上に読みかけの雑誌を開いたままで、無防備に眠りこける少女。そういえば、スポーツでもやっているのか、ときどき、気持ちいいくらい真っ黒に日に焼けた女の子を見ることがある。実にすがすがしい。
永遠の少女というものがあるとしたら、あのような図像かと思う。
六月の庭の緑黄色の奔流。
植物と版画が奇妙な均衡を保っているのを見る。
ポータブル・メディアとしての版画のありかたに対して、版画独自の物質性をつきつめる試みを見る。例えば写真でいうフォトグラムのようなものか。
1937年生まれの版画家の作品は、70~80年代には好奇心や実験精神のようなものが先に立って見えるのに、90年代以降の作品には、確かに死の影が差して見える。
そういえば、ぼくも30を過ぎる頃までは、自分が年を取るということに無自覚だった。
今は過剰に自覚している?
支持体をもたないデッサン。
描くという行為、手の動きを取り出した。
質感のイリュージョン。
実物より厚みをもって塗り重ねられているように見える。
蔦状の植物が別の植物の上に覆いかぶさる。画面はその動きをはらんでいる。
マクロとミクロの間で視点の移動を繰り返しながら見る。
二つの作品では、それぞれ異なるレベルで移動させている気がする。
花弁をどっしりと垂れたガーベラの模造に、どこかのサイトで見た、疲れて棚板の上に頭を乗せたまま眠る子供の写真を思い出す。
* * *
「屋上庭園」展
会場: 東京都現代美術館
スケジュール: 2008年04月29日 ~ 2008年07月06日
5月5日(月、祝)開館
住所: 〒135-0022 東京都江東区三好4-1-1
電話: 03-5245-4111

コメントを残す