Once Upon A Late Summer Funeral
自分の夏を終わらせようとするのに、とどめを刺せないでいるのだ。
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「わたらせアートプロジェクト2008」を見てきた。
といっても、半日あまり急ぎ足で回った程度では、この広いエリアに点在する作品の、半分も目にすることができただろうか。
とはいえ、今回の展示のうち、通洞・足尾会場と本山会場の作品は、だいたい見ることができたと思う。


このイヴェントのことは、確か去年のAAF学校の際に、学生たちの発表で知ったのだと思う。実際に足を運ぶのは、これが初めてだ。
足尾は、いうまでもなく足尾銅山で知られた町で、実際、このあたりの山林や建築物などは、今でもかなりの部分が旧古河鉱業、今の古河機械金属の所有であるようだ。
が、銅山が採掘を終えた後、鉱山労働者の多くは山を降りた。坑口近くの大規模な社宅群は取り壊されて更地となり、労働者の子弟が通っていた小学校は廃校となった。禿山だった山肌は緑で覆われるようになった(これは、古河機械金属の努力もあるようだ)。
この地域に残った住民は、古河関係の施設を管理する少数の従業員を別にすれば、今では年金暮らしとなった元鉱山労働者たちであり、それも急速に高齢化が進んでいると見える。
老人の口から、「シャッター通り」「限界集落」といった、切ない言葉が漏れた。
観光客相手に閉山前の町並みを紹介する解説板があちこちに立っていたのだが、往時の繁華を強調すればするほど、目の前の風景との落差が痛々しい。
明治以降、急速に産業化と人口の集中が進んだのが、閉山によって急速に衰退した。むろんそこには公害の歴史もはらんでいる。日本の地方がかかえる負の部分を凝縮して一身に背負っているかのような町だ。
ふと、燐鉱石の枯渇で国自体が破綻状態にあるというナウルのことなどを思い起こす。
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なぜこの場所でアート・イヴェントを開催するのか。
AAF学校で学生たちの発表を聞いて、正直、あまり良くは思わなかった記憶がある。
確か、このイヴェントを企画・運営する学生たちに、会場となる渡良瀬地域にゆかりのある人はいないと聞いた。本当にそうなら、その土地に対する切実さを欠いて、この種のイヴェントはうまく行くものなのだろうか。
要は、都会の坊っちゃん嬢ちゃん美大生たちの、優雅なアート遊びなのだろう。そんなふうに思っていた。
が、実際に足を運んで感じたのは、土地の発するメッセージが予想以上に強い。
ひとつは、この土地に刻まれた物語の深さ。
もうひとつは、この土地が産出するモノ自体の強度。
そして、この土地で展開する人工物と自然物との緊張関係。
こうして都会に暮らしている分には、自然は人間の支配下にあるかのように思う。それは実は地方でも同断で、手入れの行き届いた水田が整然と並ぶさまは、人工の美のひとつのかたちだろう。
が、ここ足尾では、打ち捨てられた建造物が朽ち、あるいは錆び、その隙間から緑の蔓が闖入して、静かに、そして着実に、彼らの領分を拡大する。家の中に土足で入ってこられたような野蛮さがある。
植物は暴力的だと思った。静謐、かつ暴力的。
さらにいえば、足尾という町全体が、急速に自然へと回収されていくプロセスの只中にあるのだ。
この土地に現代美術を置いてみせるのは、学生たちの意図を超えて、何か重要な作用を発しうるような気がした。
個別の作品について詳細に感想を覚え書きしておく余裕はないが、また、一部の地域を急ぎ足で回った程度では木を見て森を見ずの状況になりかねないけれど、いくつか好ましく思った作品はある。
それは、上で述べた自然と人工との緊張感をうまく取り込んだもの、人間の歴史やモノの強度と正面から向かい合う力を感じるもの(この土地には、どこかマテリアルなものが似合う気がする)ということになるだろうか。残念ながら土地の発する力に拮抗しきれていないと感じた作品もあった。
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わたらせ渓谷鐵道 現代美術展「ワタラセアートプロジェクト2008」
会場: わたらせ渓谷鐵道の沿線地域
スケジュール: 2008年08月10日 ~ 2008年08月31日

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