
AAF学校の企画でダムタイプの「S/N」を見た。
この映像を見るのは都合3回目になる。2005年に東京都写真美術館で見たのが最初で、2回目は去年ICCで。
初めて見たときは正直よく分からなかった。二度目は自分に切実なものとして見た。そして今回、多少の物足りなさを感じなくもなかった。
とはいえ、それは言うまでもなくぼくが鈍感なので、何しろ1995年の作品なのだから、この中で語られていることをわがものにする(ことが本当にできていると断言する自信もないが、それはさて措けば)まで、10数年かかったことになる。
この映像がパッケージ化されないのは正解なのだろう。擬似的にせよ劇場的な空間で見ることが要請されることで、その場の空気だけでなく、その折々の自分の心象、時代の背景が反映されずにいられない。
あらゆる境界線が無効化される地点を夢見ながら、そんな場所はどこにもないことも分かっている。そのような認識を共有したうえで、それでも生きながらえているぼくは、どのように足を踏み出せばよいのか。
別に現実的な処方箋が提示されているわけではない。ただ、何かの予感はある。
ところで、今回の講義に与えられた副題「愛好者から当事者へ」について、結局、講義の中で深く掘り下げられることはなかったように思うが、このタイトルを「〈アートの〉愛好者から〈アートの〉当事者へ」と補足すると、かねてぼくが抱いている問題意識であり、まさにぼく自身の問題でもある、アーティストと非アーティストの境界線、あるいは非アーティストからアーティストに遷移する瞬間はどこにあるのかという問いと重なってくる。
そのうえで、このテーマをさらに「S/N」というタイトルと重ねてみれば、特定の権威、あるいは価値をもつ存在としてのアーティストがシグナルであり、それ以外の有象無象の市民は(少なくともアート的には)ノイズということなのか。
さらに誤解を恐れずいえば、アーティスト/非アーティストの区分は、HIVポジティブ/HIVネガティブの比喩であるようにも思われた。
すなわち、エイズが決して濃密な性体験ゆえに感染するのではなく、ただ1回のセックスから感染しうるように、ひとは、ただ1回の決定的な芸術体験によってアーティストと呼ばれる存在になりうるのではないかと。
とはいえ、HIVキャリアであることは特別なことではなく、むしろその境界を消失させることこそをぼくらは望むのであれば、同様にアーティスト/非アーティストの区分もすぐに無効化されることになる。
つまり、ぼくらは、ある種の永久運動に飛び込むことへの覚悟を問われているのだと思う。
最後に、これは余談になるかも知れないけど、今回の議論を聞いていて思ったこと。
人の性的な属性を単純にヘテロセクシャルとホモセクシャルに二分したうえで、ホモセクシャルの側を人数的に少数であるということをもってセクシャル・マイノリティとすることには違和感がある。
つまり、ホモとヘテロのどちらでもない人の存在が抜け落ちているんじゃないか。
前にも同じようなことを書いたかも知れないけど、ある人がホモセクシャルかヘテロセクシャルかというのは、どうやって決めるのだろう。おそらくそれは、具体的な性的な活動の有無によって分けるしかないのではないか。
しかし、ホモにせよヘテロにせよ、性的な活動を定常的に行っていない人たちも、数としては結構いるんじゃないかと思っている。
マスメディアではヘテロセクシャルな存在であることを強迫するような言説が支配的である一方、ホモセクシャルな人たちはマイノリティと位置づけられることによって逆に強いエネルギーを発信してしまうこともある。結果として、双方のどちらでない人たちの発言は表面化しづらくなる。
そのような、いわば性的なサイレント・マジョリティは、実数に比して、社会的にはマイノリティであることを強いられているのではないか。
ホモでもヘテロでもない第三者の存在を措いたうえで、わが国ではなぜホモセクシャルのHIV感染数がヘテロに比べて突出しているのか、という問題を考え直してみると、また違う風景が見えてくるのではないかと思うが、いかがか。
・・・やっぱり蛇足だったかな。
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『AAF学校2009「思考の基礎体力」第3回〈「S/N」上映・愛好者から当事者へ〉』
会場: アサヒ・アートスクエア
スケジュール: 2009年09月06日 14:00 ~
住所: 〒130-0001 東京都墨田区吾妻橋1-23-1 アサヒスーパードライホール4F
講師: ブブ・ド・ラ・マドレーヌ、山田創平