家を出てもうすぐ駅というところで雨粒が落ちてきた。洗濯物をたっぷり干してきたのにこのタイミングで雨かよ、と思うが、しゃーない。

恵比寿の東京都写真美術館に。7月19日までの「写真とファッション 90年代以降の関係性を探る」展に。

当方、ファッションなんて柄じゃないが、まさに90年代はテレビの「ファッション通信」をよく見ていたし、スタジオボイス誌のそれ系の記事も目にしていたから、興味がないわけじゃない。

アンダース・エドストロームのキャプションにあるように、ファッション写真が「印画紙だけではなく、実際に写真が掲載された雑誌の誌面も切り取られてレイアウトされ」るのは、まさにファッションらしいと思う。時代や都市の表層を写し取るのには相応しいやり方だし、ファッションに印刷物が絡んでくると、今度はグラフィック・デザイナーの仕事が浮かび上がってくる。最早ノスタルジーか。

この写真からはひりひりとした痛々しさが伝わってくるようだ。

かつて都市の先端でモードに携わった人が、今は都市から離れた自然豊かな土地に居場所を見つけている例。先端を極めるとそんな境地に至るのか。90年代からだらだらと東京に居続けている自分を顧みるが、今の墨田区暮らしというのも、ある種のレイドバックなのか。

ホンマタカシさんの、ミリタリーウェアを着た若い男女の写真は沖縄で撮られたようだ。ミリタリーウェアを身につけることについて、本土とはどのような意味のズレを孕むのか。

しかし、ミリタリーウェアと言うけれど、要は軍服であって、カタカナやアルファベットにした途端に言葉の生々しさが失われるのはどうしたことか。「ARMY」ではなく「陸軍」と胸に大書きされたTシャツを着てはどうか。

PUGMENTの展示のチャートの中にさらりと埋め込まれた「今もどこかで起こっている戦争は、ミリタリーウェアがかっこいいことと関係があるのでしょうか。」というストレートな問いに、またそれがファッションの当事者から発せられていることに唸る。

Tシャツにプリントされた文字を抜き出す彼らのプロジェクトは、見えているのに見えていない文字を再可視化することで、元々の意味を発見するのだろうか。先程の「ARMY」のように。

夜はLIBRAIRIE6に。展示中の有持有百(ありもち・ありも)さんの制作したアニメーション作品『開かれた遊び、忘れる眼』の上映とトーク。

このタイトルの「開かれた遊び」というのは、シュヴァンクマイエルが出していた雑誌の名前なのだとか。そして「忘れる眼」というのは、まさに作家のドローイングの制作手法を表した言葉で、謎めいていた「甘美な死骸」の過程を垣間見ることができた。

作品集にサインとドローイングを加筆してもらった。6,127歩。

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