焼きそばは昨日のほうが上手く出来た気がする。洗濯一回。

有楽町に。木彫りの大黒様は前から駅構内にあったようだけど、まったく記憶にない。

よみうりホールの「柳家小三治 夏の会」昼の部に。ホール落語はコロナ後初、というか、落語に限らず、大ホールで何かを見聞きすること自体、コロナ初後。

ご多分に漏れず、検温、手指の消毒に加えて、氏名と連絡先の記録。結構な個人情報だと思うが、もしここでクラスターが発生したら、お前、小三治の落語聞いてたろ!と後から言われるわけだ。まあ小三治さんならいいか。

客席は一席ずつ空けて座ることになるが、二階から見渡すと、特にスカスカとは感じない。そういえば、大ホールというのは六、七割方入っていれば満員に見えるものだと昔どこかで読んだことがある。

柳家小はぜ「富士詣り」

江戸時代には娯楽やレクリエーションのための登山という考えはないから、当時の山登りは、講中が先達に導かれてのお詣りだったわけだ。先達と聞くと、今でも山岳信仰として残っている修験道の山伏を思うが、この噺の講中は、山の神の存在を畏れながらも、当時からすでにレクリエーションの性格があったのだろう、先達との関係も世話に砕けて、どうしても先達さんと言えなくて「へんだつさん」と言ってしまう者もいる。そんな楽しみ半分、畏れ半分の山登りの雰囲気がこの噺から伝わってくる。

柳家三三「金明竹」

小三治門下の高弟である三三師が、正調「金明竹」を通しで、たっぷりと聞かせる。上方言葉の言い立ても淀みなく、自然と客席から拍手が起こる。前半、お客が来たらおじさんを呼べと言いつかりながら、どうしても自分で応対しようとする小僧さんも小僧さんだが、三三さんの言うように、旦那さんのほうも、そんなに小僧さんのことが心配なら、いちいち奥に引っ込まなければいいものを。確かにあれでは間違いを誘発しているようなものだ。

柳家小八「夏どろ」

時節柄なのだろう、この噺を聞くのは、今回の小八さんでこの夏四人目になる。やはり演者によって印象が変わるものだと思う。長屋の一軒に入り込んだ泥棒が、中で寝ていた大工に出くわす。前に聞いた一之輔さんは、この大工を、いかにも世を拗ねた、人を食ったような態度で演じていて、「殺せ」の台詞に泥棒が怯むのもさもありなんと思われたが、今回の小八さんの、気が弱そうな大工の口から「殺せ」の台詞が出るのは、ややしっくりこない感じも受けた。

柳家小三治「小言念仏」

生の高座を見ながら、まるで現在進行形のドキュメンタリーを見ているような感じがしたのは、初めての体験だった。

さあ、どれくらいぶりになるだろう、小三治さんの高座を見るのは。いずれにせよ、私は小三治さんを追っかけているようなマニアックな落語ファンではない。

小三治さんは、自分は台詞を覚えるタイプの噺家にはなれなかったと言う。そして、自身のことを情熱で演じる噺家だと言ったのは、かつて先代小さん師が言ったという「狸は狸の了見で演れ」という態度と通じるのだろうが、もう緻密な台詞の落語は、三三師ら自らの高弟たちに任せたという境地でもあるのか。

コロナ禍で数ヶ月間ほとんど口を動かしていなかったという小三治さんは、思うように台詞が出ない様子で、今回選んだ「小言念仏」についても、いつものやり方とはまったく違うやり方になってしまったと言うが、聞きなれない私にはよく分からない。ただ、「小言念仏」は、なんて融通無碍な、容器みたいな噺なんだろうと思った。木魚の撥代わりに扇子でリズムを刻んで、自由自在に言葉を乗せていく。これはもうラップやヒップホップみたいなものではないか。

私は、文楽、志ん生、円生といった昭和の名人たちには間に合っていない。志ん朝師は、老いを晒す前に亡くなってしまった。ここに至って、初めて、いわば老いる名人の姿を目撃することができるのだと思った。

最後はこれをやろうと決めていたという、舞台上から観客とともに、医療関係者に拍手を贈って幕。

有楽町から地下鉄に乗って東池袋に。タイムズ スパ・レスタで休日の残りを過ごす。

近所の猫が外で涼んでいたので、ちょっかいを出そうとしたらそっぽを向かれてしまった。

ずっと屋内にいた割には捗った。8,749歩。どこでそんなに歩いたかな?

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