猫におはよう。

雲が速く動く。

朝はドトール。

昼はパスタランチ。前菜代わりに肉をサービスしてくれた。木更津で飼育している水牛だそう。

パスタは浜田港で上がった鮮魚のラグーのスパゲッティー。

デザートのパンナコッタが絶品。

夜は新橋へ。

内幸町ホールに。

桂米二さんの会に。米二さんは米朝門下、京都在住のベテランの噺家さんで、東京でも年に三回程落語会を催されている。そのうち私が出かけるのは年一回程度かな。米二さんの落語は、米朝師仕込みの本格派だが、時に皮肉を効かせた、苦味を含んだ芸だ。迂闊に近づくとピシャリと来そうだから、こちらも弁えて、あまり近寄りすぎないようにする。それはシャイということの別表現かも知れないが。噺家に限らず、ミュージシャンでも他の芸事でも、芸界にそんな人は時々いる。私は自然とそういう芸人に引き付けられる傾向があるようだ。

桂團治郎「阿弥陀池」

東京版の「新聞記事」では、天婦羅屋の竹さんが挙げられた(実際には挙げられてないけれど)のはいつの時代のことかはっきりしないけれど、上方版の「阿弥陀池」では、物語の舞台は、少なくとも日露戦争の記憶が新しい時期だったんだろうと分かる。新聞に威光があった時代であると同時に、必ずしも多くの人が新聞を読んでいなかった時代だ。今はどうだろう。誰か「ネット記事」という新作落語でも作ったらどうか。

桂米二「代書」

米二さんの解説文にあるが、この演目は「代書屋」という題でも知られているけれど、米朝師が実在の司法書士や行政書士に憚って「代書」という題に改めたというのは知らなかった。もともとは米朝師の師匠である先代桂米團治師の作になる新作落語で、今では東京の寄席でも様々に演じられているが、米二さんは米朝直伝の「代書」である。

米二さんの「代書」では、落語の中の物語の期日が明らかになっている。昭和15年9月10日である。それは、代書屋が客の履歴書を書きながら代書日を口にするくだりがあるからだが、物語の年月日まで明白な落語というのも珍しいのではないか。それだけに、代書屋と次々現れる客たちのやり取りは、当時の時代背景を映していて興味深い。

笑福亭鶴瓶「妾馬」

あの鶴瓶さんである。さあ、鶴瓶さんの生の高座は、私は初めてではないか。ちよっと、わくわくしていた。富山の高校生だった頃、日曜日の深夜、大阪から雑音まぎれに流れてくる声を、家族に分からないようにボリュームを絞って聞いていたことを思い出す。鶴瓶さんと放送作家の新野新さんの二人が長く続けていたラジオ番組を、私が聞いていたのは、番組終盤の二、三年程の間だった。もう30年も前のことだ。その頃の鶴瓶さんの年齢を、今の私はとうに越してしまっている。

初めて聞く鶴瓶さんの古典落語は、こう言っては悪いが、それほどの感興はなかった。鶴瓶さんの「妾馬」は、江戸落語の舞台を上方に移したものだろうが、上方落語一本でやってきた米二さんに配慮して、あえて、このような演目を選んだのだろうか。江戸時代の大坂に大名の屋敷がどれくらいあったか知らないが、江戸よりは少ないだろう。大坂の空気でもなく、さりとて江戸の空気でもない、根っ子のない噺になってしまっているように感じた。

桂米二「遊山船」

江戸落語で大川といえば今の隅田川だが、上方落語では今の旧淀川か。橋の上から川面を行き来する屋形船の中を覗く喜六と清八の視点を通じて、往時の賑わいが彷彿とする。粋、なんて言うと江戸の専売特許のようだが、「もっちゃり」を嫌う上方の粋もあるのが分かる。噺の構成は、言ってみれば情景描写の連続で、やや単調に感じてしまったのは、こちらの集中力のせいかも知れないが。

鶴瓶さんの「妾馬」はともかく、「阿弥陀池」「代書」そして「遊山船」は、噺それぞれの時代背景がはっきりとして、こういう趣向も面白いと思った。

内幸町ホールからの帰りは、地下道で新橋駅へ。何度もこの場所には来ているのに、地下道を通るのは初めて。こんな道があったのか、今まで地上をずいぶん遠回りしていたような気がする。

新橋駅といえばサラリーマンがたむろする夜のSL広場だが、こんなに人がいないのも初めて見た。お約束のビデオカメラを担いだ取材陣も、どこか寂しそうでもある。

新橋から横須賀線、総武線快速で錦糸町に、そして半蔵門線に乗り換えて、寄り道せずに帰宅。

猫にこんばんは。8,482歩。

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