初台のICCで「意識と感覚のプロジェクション−映像表現の諸相」と題されたシンポジウムを聴いてきた。
もっとも、このシンポジウムの本体?たる「FUTURE CINEMA」展は、シンポジウム開始前にその一部をざっと見たのみで、会期はもう1週間ほどしかないが、再度訪れなければなるまい。
ICCの5階展示室を入ったすぐ脇の作品、カスパー・シュトラッケの魅惑的な作品「z2[zuzeの帯]」。これはいくつもの穴をうがたれた映画フィルムが投影され、観客が手回しでフィルムを動かすことができるようになっているものだ。1930年代にドイツのツーゼという技術者が使い古しのフィルムを記録メディアとしたコンピュータを製作していたという。本当だろうか?一般的なコンピュータ史では、ENIACが世界初のコンピュータとされている。もちろん、チャールズ・バベッジの階差機関などを考慮に入れなければ、だが。ENIACの完成は第二次大戦が終わるか終わらないかの頃だったと記憶しているが、それより10年近い前に外部記憶装置をもったコンピュータが開発されていたのだろうか?
ともあれ、パンチカードのように無数の穴が開いたフィルム、そのフィルムにプリントされたイメージは人間の目がクローズアップされたものだ。フィルムの一方の切れ端が展示室の床に丸まっているのを見たぼくは、思わずフィルムを手にとって間近でそれを見たいと思った。が、すぐに係員の女性に作品に手を触れないようにと止められてしまった。
しかし、そのフィルム自体が美しい造形だと思った。例えば、キャンバスに穴をあけ、ナイフで切り刻んだルチオ・フォンタナの作品のように。
あるいは日本の実験工房の作家たちは、1950年代に映画フィルムに直接傷をつけた映像作品を製作している。それは瀧口修造によってキネカリグラフィと名づけられた。
今回のシュトラッケの作品も、実際に映写機にかけられたら、どのように見えたことだろう?
余談が長くなった。今回のシンポジウムのパネラーは、文化人類学者の今福龍太氏、映画学が専門の加藤幹郎氏、そして本展の出展作家の一人でもある藤幡正樹氏の三人。
加藤氏は出展作品のひとつであるジム・キャンベルの「照射される平均値#1」を取り上げ、この作品はヒッチコックの映画「サイコ」の全コマをスキャンし、一枚の画像に重ねあわせたものだが、作品の意義を認めつつも、原作でヒッチコックが意図的に消し去った観客の視線についての考察が欠けていることを指摘する。そしてこの点は、本作とは逆に原作の「サイコ」を24時間に引き伸ばして上映したダグラス・ゴードンの作品「24時間サイコ」にも共通する問題だとする。
(実はぼくは「サイコ」を未見なのだが)つまり、現代のハリウッド映画に通ずる映画文法では、観客が映画の登場人物の誰かに感情移入することによって、観客の視線がスクリーンに映し出される映像と同調する。しかし、「サイコ」では、観客が一度感情移入した主人公のマリオンが、映画開始後30分(だったかな)で殺されてしまい、観客は突然感情移入の対象を失ってしまう。加藤氏はこれを観客の視線がブラックホールに消失するという言い方をしている。
また、同様に加藤氏は、近年のハリウッド映画で多用されるようになったCGI(Computer Generated Image)では、撮影者の視線が欠如しているという点も指摘している。
つまり、ハリウッド的な古典的な映画においては、観客の視線と撮影者の視線というものをバーチャルに設けることで映画文法が成立したわけだが、これは映画が発明された当初は、必ずしもそうではなかった。観る側においても、撮る側においても、さまざまな試みがなされていたわけで、加藤氏がゴダールのことを「リュミエール兄弟より前に映画を発明したかった人」と述べたのは、そういうことなのだろう。
一方、今回の「FUTURE CINEMA」展に出展されているようなコンピュータを使用した映像表現では、あたかも映画が発明されたばかりの時期のような試みがなされており、それを氏は「へその緒で繋がった」という表現をしている。氏があえてジム・キャンベルの作品を取り上げたのは、手法のポテンシャルに対して食い足りなさを感じたということかもしれない。
一方、今福氏は、氏自身の映像プロジェクト、例えば文化人類学者のクロード・レヴィ−ストロースが1930年代にサンパウロで撮影した写真を、今福氏が現代のサンパウロの同じ場所で撮影した写真と併置する作品を紹介した。
残念ながら加藤氏と今福氏の議論があまりかみ合っていないように感じられたのだが、それは今福氏自らが撮影者の視線に大きく傾いているということと無関係ではないように思える。
氏が写真作品の展示手法が回廊的であること、つまり美術館のように回廊の周囲に小部屋の展示室が位置し、写真作品が展示されていることを語るが、まさに今福氏自身が、コロニアル都市の回廊の中を歩きながら写真を撮影し、あるいは写真に切り取られた視線を追体験しているようにも見える。
しかし加藤氏の議論を聞いた後では、撮影者の視線とカメラのレンズの方向の差異がどうしても気になってしまう。つまり、写真作品を見るとき、ぼくたちはフォトグラファーの視線を追体験しているような感覚に陥るわけだが、そのバーチャリティの問題は、写真と同様に、その文法を援用した映画にも付きまとうことだろうからだ。
これは、写真(あるいは映画)そのものと、その物語性の問題と言い換えることができるかも知れない。
鼎談の最後で、加藤氏が引用した映画批評家山田宏一氏の言葉、無人島に一本だけフィルムを持っていくとしたらどの映画か、という質問に、氏は、どの映画というよりも、誰か一緒に観る人が欲しい、と答えたそうだ。
つまり、複数者で観るということが映画の要件になっているようなのだ。視線はあくまで一対一のようでありながら。
それに対して、今回の「FUTURE CINEMA」展では規模が大きすぎて巡回できなかったというジェフリー・ショーのEVE(Extended Virtual Environment)という作品では、ドーム状のスクリーンの中に観客が一人だけ入り、観客の視線の方向に映像が映し出される。このあたりにも、未来の映画の変容の可能性があるのだろう。