• 高校に遅刻して二時間目から出たら、前の会社の先輩が教壇に現れて、これから職業教育をすると言う。見回すと教室の中ではみんなハンダごてで基盤をいじったり、エンジンを組み立てたりしている。後ろの席の古い仲間から頼まれて黒い電子部品を預かったのが、ほかの部品とまぎれてしまう、という夢。 #
  • その高校の帰り、小学校の友達から両国辺でいい喫茶店を紹介してくれと言われる。ここは野外の焼き鳥屋のようだ。すぐ後ろに喫茶店があり、コーヒーとシロップのようなものが入ったグラスを二つ出前してくる。これを混ぜて飲むらしく、友人にも飲ませる。ずいぶん甘いようだがそうでもない、という夢。 #
  • 焼き鳥屋を出て、大通りにかかる広い歩道橋を歩く。手にした鞄があまりに重いので、放り出して後から拾おうとしたら不良風の若い男女が拾って手渡してくれる。歩道橋の上に大きなノートPCと小箱が落ちていて、若者たちが囲んでいる。前の会社の先輩の物だと思い、携帯を借りて電話する、という夢。 #
  • こうして書いてみると、私の夢にはここ数年知り合った仲間というのはほとんど出てこない。大抵が10年以上前の仲間、今では滅多に会わなくなった人たちばかりだ。むしろ夢で補っていると考えるべきだろうか。 #
  • 今では死んでしまった家族も夢に出る。先程は書きもらしたが、高校に出かける前は朝9時半頃の昔の私の家とおぼしき場面から夢が始まっている。確か死んだ祖父と話していた。そう考えると、やはり夢で補っているということか。逆に、まだ存命の母親を夢に見た記憶はない。 #
  • こうして夢の登場人物が増えていくのだろうか。 #
  • それは別に悲しいとか寂しいとかいうことではない。特に私は夢と現実が究極的に一致するという思想の信者なので、夢で会う人と現実で会う人というのは原理的に違いはない。 #
  • 高校時代の夢はよく見るし、前に勤めていた会社の人が夢に出てくることも多い。それなのに、その間の大学時代の夢というのはあまり見ない気がする。これは何故なんだろう。過去の記憶の中から、夢に現れる人と現れない人、現れる時代と現れない時代、これらが夢の中で錯綜している。 #
  • 豊醇な葡萄酒の壜のなかのように、夢のなかで描く完全な画家は彼の技能を何から傳達されたのであろうか。 夢の賜物である技能は愛を約束する。 ここに麗わしい循環運動がはじまる。(瀧口修造「夢の王族」) #
  • 夢が無効用であり、また夢と現実が一致するなら、現実もまた無効用であるということだろうか。いや、むしろ効用という概念に遡って再検討すべきだろう。私もまた、瀧口の言う「流通価値のないものを、ある内的要請だけによって流通させるという不逞な考え」に取り付かれている。 #
  • 体育館が変な集団に乗っ取られ、それを皆で手をつないで一緒に歌を歌いながら取り返していく…こう書くといかにも通俗的だね…という夢。 #
  • 一度はその変な集団に追い返され、体育館のロビーで涙を流していたのはSMAPの面々ではなかろうか。もう一度立ちあがって、今度は歌の力でぼくらの体育館を取り戻すんだ、さあ皆で手をつないで、舞台のほうに進もう。そこにさだまさしなど大物歌手も参加、その中になぜか私も…いよいよ通俗的か #

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