富山とか、黒部について考えていて、ふと、自分が昔書いた文章を思い出した。
いま読み返してみると、なんだか大仰すぎて気恥ずかしいのだけど、そのときの思いが表れていると思うので、そのまま引用する。
* * *


瀧口修造について
まず、できるだけ客観的な地点からはじめたい。
1903年富山県に生れる。1931年慶應義塾大学文学部英文学科卒業。詩人・美術評論家。著書『近代芸術』『16の横顔・ボナールからアルプへ』『幻想画家論』『点』『余白に書く』『画家の沈黙の部分』『寸秒夢』。1979没。
(ハーバート・リード『芸術の意味』訳者略歴より)
これだけを引用して、改めて読み返してみるが、どこで引っかかるか。
富山県生まれということ?(僕と同郷だ。これは後でもう一度考える)
詩人であり、美術評論家であるということ。(その関係は?)
僕の手持ちの第17刷(1981年発行になっている)では、「1979没」という部分だけ印刷の調子が違っている。後から付け足したのだろうが。亡くなってから2年しか経っていない。
僕が瀧口修造に決定的に出会ったのは、2年前の夏、町田市立図書館の書架だった。
(2年も経っていることに愕然とするが)
そこには思潮社の現代詩読本と『瀧口修造の詩的実験1927-1937』があった。いったい僕は何を探していたのだろうか?
瀧口という名前だけは知っていた、と思う。手持ちの現代美術辞典には瀧口修造の項目があった。それに、佐藤朔のエッセイ集『反レクイエム』に、瀧口修造の回想が収められている。これも僕の書棚にある。
(佐藤朔は慶応での瀧口の学友、のちに慶応の塾長になる。去年亡くなった)
まず、瀧口が富山の出身ということに驚いた。そしてこの驚きから瀧口に入ったことは、僕の倫理的な態度表明を永遠に要請するだろう。
つまり、僕が瀧口と同郷という事実から離れられない以上、その一点から瀧口修造は僕に永久に問いかけつづける。何かものを書くこと、生きること、すべての局面において瀧口の存在が僕の中に永久に突き刺さりつづけるだろう。
ここでいたずらに郷里を強調しているように見えるのは本意ではないが、ひとつの重大な契機であることは確かである。
しかし、こう書いてみて、自分の文章の仰々しさに鼻白む思いがする。2年も経っているのだ、この間自分はいったい何をしてきたというのか。絶対的な局面を回避しつづけてきたのではないのか。
(1997.7)
瀧口修造とシュルレアリスムに出会っていなければ、今のぼくはまったく救われないものになっていただろう。
愛という言葉の意味もはじめてシュルレアリスムに教えられた。これまでのぼくは、愛という言葉に羞恥とかすかな嫌悪をもってしか接することはできなかった。そのさなかにもぼくだけの定義は保ちつづけようと努めてはきたのだが。
ぼくの中でひとつの感覚ができあがりはじめていた。
僕は生まれてはじめて愛の詩を書こうと思った。
(1997.8.27)
なんだかまじめすぎますよね。ものすごくまじめにシュルレアリスムをやっているというふうに見えてしまう(これはこのHP全体にいえることかもしれませんが)。自分は本当はこんな誠実でも潔癖でもないのに。
言葉にするとどうも書いている自分と激しく乖離していくようで恐い。
だからこれはもう乖離でもなんでもないんですよね。読んでいるみなさんは、これはぼくのことではなく、といって誰のことでもない、ここにある言葉そのものでしかないもの(物質としての言葉、などといいかえると瀧口っぽいですが)と思ってください。
蛇足ですが。
(1997.8.28)
瀧口が富山の出身だと書いたが、ぼくは瀧口の生まれた村に行ったことがある。生家はとうに残っていないが、菩提寺に瀧口修造の墓碑があると聞いたからだ。
出発が遅かったので、最寄りの駅から20分ほど歩いてそことおぼしき集落につくと、もう日が暮れかかっていた。ちょうどお盆のころで、公園には盆踊りのやぐらが組んであり、家々の窓からはなんとなくお線香の匂いが漂ってくるようだった。暗がりの田んぼの上を風が通っていった。
正直言って、吐き気がした。というのも、自分が生まれ育った環境とあまりに似ていたから。あまりに絶望的な、日本のどこにもある、田舎の地域共同体。
あの瀧口修造もこんなところから出たんだ。それとも、こんなところだからこそ?
この村から出て、アヴァンギャルドの姿勢を一生貫くのはどんなにつらいことだろうかと思った。この村が悪いわけではない。もちろん、瀧口が悪いわけでは決してない。ただ、悲しいことだ。
瀧口の墓碑を探そうとしたが、どこに菩提寺があるのかもわからなかった。そのうちにあたりは真っ暗になってしまった。
あきらめて一軒だけやっている小さなスーパーで飲み物を買い、電話でタクシーを呼んでもらった。その店のご主人の住んでいる家はもともと瀧口の生家のあったところだが、今は何も残っていないという。ときどき東京から大学生や研究者が訪ねてくるとも聞いた。結局変人ながやろ、とそのおじさんはぼくに言った。ぼくは曖昧に笑ってうなずき、タクシーに乗って帰った。
(1997.8.29)
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2005年の追記
1997年から、またずいぶん時間が経ってしまったものだと思う。
瀧口修造は、1976年に富山県の新聞に寄せた、私にとってふるさととは何か、という小文の表題を「澄明な存在の核心」としている(「コレクション瀧口修造」第1巻に収録されている)。
改めて、この言葉を噛み締める。

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