初台のICCに藤幡正樹さんのアーティスト・トークを聞きに行ってきた。
今やっている「アート・ミーツ・メディア」展の関連企画ということですが、そもそも私は、今回の藤幡先生の展示もまだ見てないんですが。
それでも話は面白かったな。
面白かった、というのは、聞いていて、なんとなく、納得できることが多いのね。


今回の企画展の趣旨のひとつが、1989年から今まで15年間のメディア・アートの歴史を振り返るということらしいのだけど、この15年は、ぼくにとっても、メディア・アートなるものを、いち観客として見つづけてきた15年だった。
藤幡さんは、メディア・アートの流れは、20世紀の現代美術の文脈とは切り離して考えるべきという。
そういうふうにはっきり言われて、実は、すごく安心した。
というのは、ぼくは、もともと近代/現代美術って全然関心なかったんだけど、パーソナルコンピュータをとりまく文化的な環境のひとつとして、メディア・アート的なものを見るようになり、そこから美術に関心が移行、拡大していったからだ。
若い人には、90年代になって急にメディア・アートが盛んになってきたように見えるかもしれないけど、実は80年代にそれを準備していた期間があった、というのも、ひじょうに納得いく話で、それは、メインフレームに対するオルタナティブとしてのパーソナルコンピュータの誕生という物語と切り離せない。
そんな話を聞いていると、やっぱりぼくは、現代美術の人よりも、テッド・ネルソンとかアラン・ケイみたいな人たちのほうに、ずっとシンパシーがあるなあというのを再認識した次第なのだった。
また、それを、メディア・アートという枠組みの中で、大きい声で言っちゃっていいんだなあというのも、非常にうれしいことであった。
メディア・アートを20世紀後半のアメリカ中心のコンテンポラリーアートの流れと、どう関係づけるかっていうと、それは無理して関係づけなくたっていいってことですよね。
兄弟や子供っていうより、いとことか、はとことか、それくらいな関係性かな。
もっといえば、たまたま使い勝手がいいから、美術館を間借りさせてもらっている、という感じなのかも。
藤幡先生の言葉で、アートはセルフ・モティベーティッドなもの、とか、売るために作るものではない、とか、一瞬、ちょっと昔かたぎな作家主義っぽく聞こえるところもあるんだけど、でも、それは、一連の発言を聞いていれば、つながってくる。
ジェフリー・ショーの作品「レジブル・シティ」の話で、この作品は、自転車のメディア性みたいな部分を取り出して見せているわけですが、この作品はアートだけど、もし自転車をメタファーとして扱っていたら、それはアートじゃない(かなり意訳)というところ、なんとなく分かるけど、もうすこし詳しく聞きたい。
それから、アートとわかりにくさ、についてということで、藤幡先生の作品は、実はわかりにくい、という話で、1994年の「生け捕られた速度」という作品。ご本人の説明で、やっと何を言わんとしているのか、よくわかりました。
この作品、まだ初台にICCができる前、あれは麻布のあたりだったか、NTTラーニングシステムズのオフィスの一角にあった、ICCギャラリーまで、わざわざバスに乗って見に行きましたよ、そういえば。
あのときも、展示のパンフレットくらいはもらっているはずなんだけど、多分、わざわざ見に行った、というところに喜びを感じて、どういう作品か、とかはあんまり考えなかったんだろうな。
それが10年経って、ああ、そういうことだったのね、と、やっとわかったという話。
アート・ミーツ・メディア:知覚の冒険
http://www.ntticc.or.jp/Schedule/2005/art_meets_media/index_j.html
藤幡正樹オープンアトリエ《生け捕られた速度》
http://www.ntticc.or.jp/Archive/1994/Impressing_Velocity/index_j.html

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