白いキャンバスは自明のものとして与えられているのか。これは一種のレディメイドではないかと思う。画材店でキャンバスを買ってきて、それをそのまま美術作品として展示したっていいだろう。それなら、作家のひと筆はモナリザの髭?
キャンバスに白く地塗りを施す人(機械?)と作家との距離は?あるいは、これは一種の注文芸術?
キャンバスがキャンバスとなり、鉄板が鉄板となるまでには、それ自体、かなりの人為が加えられている(サムスンの特別協賛による鉄とは何だろう?)。
人為と自然の対比という解釈?・・・一面そのようであり、その解釈が正しそうに思えて自分で頷くが、そうでないようにも思えて、すぐに解釈を取り消す。
会場内に散在する作家のテキストから、ふと目に付いた言葉。
日英対訳されている、“purify”は「浄化」なのか。さまざまな、それに代わる訳語を考えてみるのだが。「洗浄」「清浄」「純化」等々・・・。どれもしっくりしない気がして、その二語の間にとてつもない距離があるように思えて、うんざりする。
芸術の永遠性(という仮構)。人為と自然のせめぎあい。作品は時間の経過とともにボロボロになり、「一万年も経てば」おそらく消滅する。
そこにデジタル化された作品を対置してみる。デジタルメディアが半永久的な寿命をもつというのはおそらく幻想で、何年もつか確かめた人はいないし、それを見届けることもできない。そもそも、遅かれ早かれ、消滅することは確かなのだ。