銀座のギャラリー58に美術家の池田龍雄さんのお話を聞きに行ってきた。
「池田龍雄と語る夕べ」と題した月1回の連続講演の企画、今回をもって最後とのことだが、私は今回が始めて。今回のテーマは「戦前と戦後・瀧口修造の位置」。
美術史家の小沢節子氏との対談形式で行われた。


まず小沢氏による瀧口修造についての基本的な情報の紹介。
1940年代を折り目にして30年代と50年代、さらには20年代と60年代の瀧口の活動が重なり合うのでは?という小沢氏の考察。
これを冒頭で何度か繰り返していて、確かに面白い見方かもしれないけれど、まあ、そういわれればそのように見えないこともないなあという程度にすぎないようにも思えるのだが。形式が先に来て、実体をそれに合わせていくような感じ。あまりとらわれることもないように思う。
戦前の弾圧について。
治安維持法が、条文では死刑も規定されているが、実際に死刑が執行された事例はないというのは意外な気がした。
むろん、有名な小林多喜二のように拷問死した場合もあれば、獄死した人もいる。が、国家権力が不穏当な思想の転向を強く迫ることに本質があるのだろう。
転向すれば(=不起訴処分となれば?)保護観察下におかれる(起訴は1割という)。
そのような法律であればこそ、思想家にとって転向とは?というテーマがくっきりと浮かび上がってくる。
もうひとつの見方。
亡命しなかったから転向した、亡命していれば転向しなかった?
ブルトンはメキシコ、そしてアメリカに亡命した。
瀧口は亡命しなかった。あるいはできなかった?
もっともアメリカに行くわけにはいかなかったのだろうが(収容所送り?)。
亡命者となる途が絶たれていた。
戦前、戦後を通して、日本人が思想的な背景から亡命したというケースはあるのだろうか。そもそも、いったいどこに亡命するのだろう?
戦後になってからも、瀧口は意外なほど海外に出かけていない(ヴェネチア・ビエンナーレのときと、フィラデルフィアに行ったときの2回だけ)。
戦前から海外に渡航していた日本人芸術家も多いのに。これは純粋に経済的な理由なのだろうか。
海外渡航者に贈られたリバティパスポート。これも、亡命不能者としての瀧口という視点から考えてみるとどうだろう。
1941年の拘留事件。3月5日に逮捕か、4月5日か。官憲の言うことは信じない、自分の記憶を信じるという瀧口。
拘留期間が7ヶ月か8ヶ月か。
一方で、ブルトンには10ヶ月拘留されていたと伝えたという。サバを読む瀧口。
瀧口の戦前の体験から、戦後の活動を見通してみる。千円札事件など。国家や権力との関係で。
興味深かった話。中核派にカンパを求められて、そうたびたびは応じられない、と池田氏に語ったという。ということは、ときどきはカンパしていたのか。
その本気度は?どの程度シンパシーを感じていたのか。それを知りたい。特定のセクトに肩入れするような印象はなかったのだが。
もっとも、それがいつごろの話かわからない。おそらく、現在あるいはぼくの学生時代の新左翼とは、思い浮かべるイメージも活動の実態も変化しているのだろう。
瀧口は同時代の政治状況にどの程度関心をもっていたのか。あるいは何か具体的にコミットするようなことはあったのか。
あるいは、当時の若い美術作家たちは?
池田氏の口からは、1955年の再軍備を風刺した自作の話も聞かれた。1955年の動き。花田清輝の「コロンブスのタマゴ」論も55年。55年体制。
当時の花田清輝の存在感というのがわからない。池田氏は、瀧口より早く花田の著書に触れて、影響を受けたというが。
当時、美術家と左翼活動家が、響きあうものはあったのか。
瀧口に「アクチュアリテの中を通す」という言葉もあったように思うが。その政治的解釈は?
(ふと思ったこと。時代は下るが、秋山祐徳太子の都知事選立候補も、アーティストの政治活動という文脈で見ることができるのだろうか?シリアスすぎる見方だろうか)
当時の反安保、そして反万博の運動。実験工房の流れの作家たちも多く大阪万博に関わるわけだが、当時の作家は、あるいは瀧口は万博についてどう考えていたか。
ギャラリー58
http://www.gallery-58.com

“「池田龍雄と語る夕べ」のメモ” への1件の返信

  1. 「私は官憲などというものは、いっさい信用していないのですよ」

    今朝の「愛の流刑地」もいいねえ。末尾の一文を引用する。 「いまの菊治には、哀しいけど自慰することだけが、尊大な法に逆らう唯一の手段である」 こんな文章初めて見た。そうか、人間(あるいは男だけか)にとって、自慰こそが極限状況下における国家権力への最後の抵抗…

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