彩色されたレリーフは、だまし絵のようにも見える。
どこからどこまでが平面で、どこからどこまでが立体か。その見極め、切り分けが分からなくなり、慌てて近づいて確かめる。
わずか数センチの板の上に現れる薄っぺらな現実だが、われわれの生きているこの現実も、あるいはそういうものかと思う。
すべてが舞台装置、大道具のようなものかも知れない。


彫刻された木の表面を伝って、ひび、裂け目が突如現れる。
裂け目がこのまま広がれば、いずれこれらの作品はバラバラに断裂するのだろうか。
すべての木は緩慢な死にむかう。不意にイメージが早送りされ、一本の木の突然死が頭に浮かぶ。
そもそも、なぜ木は裂けるのかと思う。ともすれば、最初から居心地の悪い同居人にすぎないのか。
雷の一撃が猶予期間を帳消しにすることもある。荒々しい鑿の跡は、雷撃の喩えか。
芸術作品としての外観が、木塊に与えられた仮の姿とすれば、仮装された永遠の命に忍び寄る断絶は、内在し、内包されたものだろう。
作家は作品とすることでそれをあえて明らかにする。
われわれの人も街も、そのようなものであった。すべては仮の宿りか。
そしてそれを裂けるがままとする。
シュテファン・バルケンホール|木の彫刻とレリーフ(東京オペラシティアートギャラリー)
http://www.operacity.jp/ag/exh66/index.html

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