マルレーネ・デュマス展のチラシを見ている。
「いま私たちの怒りや悲しみ、死や愛といった感情をリアルに表現してくれるのは写真や映画になってしまった。かつては絵画が担っていたそのテーマをもういちど絵画の中に取り戻したい」(デュマス)
リアルな感情。少なくとも今のぼくの中に、リアルな感情などあるのだろうか。
グルメガイドで見た情報を確かめにお店に行くみたいに、映画やテレビで見た情景をなぞっているのではないか、と。


* * *
ぼくは、絵画のディテールを覗きこむ。
ここに置かれた緑、ここに引かれた青。取り残されたブラシの一本の毛。これはなぜ、ここに、こうして。
今まさに作家が、ブラシを取って、いくぶんの逡巡の後、不意にキャンバスに触れる、その瞬間を思う。作家が偶然と意志との対話を重ねる、その情景を再生している。
そこに、身震いするようなリアルを感じる。
一枚の絵の前では、見る者に平等にそのリアルにアクセスする権利が与えられているはずだと思う。
展示室の巨大な白い空間に、天窓からの光は紗幕を通って乳白色さを増している。
悄然と点在している人たちを見る。
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以下はキュレーター・トークのメモ。
「女について」の群像性。
(展示室の作品は)一点として独立して見ることはない。
絵画は、見る者がどう関わるかで意味が変わる。
三島由紀夫の「聖セバスチャンの殉教」の写真を基に描かれた絵。
「酔っぱらい」はセルフ・ヌード。隣は眠る娘。
作家と娘の関係。作家が墨で描き、ヘレナ(当時5歳位)が色をつけた。
(ブロンドの白人で、いかにも欧米の主流的なアーティストに見えるが)(伝統的な美術教育を受けた欧米のアーティストとして見るよりも)周辺(南アフリカ)から中心(アムステルダム)に出てきた人として。
80年代後半の作品。プライベートな関係のある人(作家の友人、恋人等)の写真を基に描く。
「遺伝子の憧憬」オランダに来てアパルトヘイトの問題を意識した。(その中にいたら自明だから気づかないのか?)
「邪悪は凡庸である」作家のセルフ・ポートレート。本展のキー・イメージ。
フロイトの妻のポートレート。
「作家の死」セリーヌ(仏の作家)の死亡記事に載ったデスマスク。タイトルはロラン・バルトの言葉からの引用。
「ブラック・ドローイング」「女」一人一人の人が、集まると「黒人」「女」という集団になる。(その仕組み)
西欧中心主義から見た他者。
(つきはなして)表現すると、そっけなく評価される。(とは?)
「マンカインド」イラク戦争で新聞に掲載されたテロリストの顔写真を基にした。
「隣人」テオ・ファン・ゴッホの殺人犯の顔写真を基に。オランダ人なら誰もがこの事件を想起するとか。日本で麻原彰晃の写真を見るように。
欧米にとって理解不能な他者 黒人・女性 → イスラム教徒
こういう人たちを他者として押し込めていることへの問いかけ。
開かれている絵画(とは?)
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「白雪姫と折れた腕」白雪姫にも陰毛はあるのか。
デッサンを教わらない美術教育(アメリカの現代美術シーンを向いた)と、コンサバティブなライフスタイル(アムステルダムで胸元が大きく開いた服を見て驚くような。彼女の生家はワイン醸造家(?)。おそらく解放前は黒人の奴隷も使っていただろう)の並存。
それも、周辺だから?
「芸術とはヒキガエルの織りなす物語である」カエルのくせに乳首らしいものがあるな!ということは。
作家は最初からポートレートを描いていたのではない。出発は雑誌の写真を切り抜いたコラージュだった(なにしろ、アムステルダムに来て初めてデッサンを教わったというのだから!)。
その作家が、このエントリーの冒頭に掲げた文句を語るようになるのに、どんな転換があったのか。それは必ずしも明らかにされない。
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マルレーネ・デュマス 「ブロークン・ホワイト」
会場: 東京都現代美術館
スケジュール: 2007年04月14日 ~ 2007年07月01日
住所: 〒135-0022 東京都江東区三好4?1?1
電話: 03-5245-4111

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