ル・コルビュジエ展のメモ(ギャラリー・トークを聞きながら)
1920年代、キュビスムのゆりもどしとしてのピュリスム。
1930年代(1930年前後か)、画面に色彩、陰影、多様なモチーフの登場。
「レア(Léa)」という一枚の絵(1931)。
このタイトルは、シュルレアリスムの演劇に出てくる何がしとか(帰宅していろいろ検索してみたけど、いいところまで行ってそうなのだが、結局それらしいものにはたどり着けなかった、今のところ)。
建築家はスイス生まれ。30歳のときパリに出る。
1933年(46歳)、パリにアトリエを構える。ヴォールト(かまぼこ形。越後妻有か)屋根の部屋。
午前中はアトリエで絵筆を握り、午後から建築の仕事場に向かうという生活。
「住むための機械」としての住宅。
ふと思う。建築家は、最初からホワイト・キューブをつくりたかったのだろうか。
今回の展示で、最初の展示室にある、白い物体のある絵画。あの物体が、後年の建築デザインと通底しているという、そんな説明がされている。しかしそれは、深読み(のしすぎ)ということはないのか。
あの形態、色彩は、最初からそれを求めたわけではなく、たまたまそれが合理的だったから、結果としてそうなった、ということはないのか。
例えば、住宅を安価に、大量に供給するためには、それが合理的だから、とかいった理由で。
それがいつの間にか、時代を象徴するものとして、前面に押し出されていった・・・ということは?
サヴォア邸。
近代の人間は日光浴をして健康的に生きねばならない、ゆえの屋上庭園とか(近代以前の建築は石造りで、内部はじめじめしていたという背景があるそうな)。
1930年代の絵画。
女性(豊満な)のモチーフの出現(建築家は1930年に結婚したそうだ)。
彫刻作品。
正面性が強い。家具職人の手によるもの。家具職人からの要望で、建築家のスケッチを基に作成したのだとか。
モデュロール。
人体の寸法に標準形を設定したのも、合理性、効率性とつながるように見える。そして標準化された寸法への強いこだわり。
建築家は自らの理念に対して誠実なのだろうが、どうしても、今となっては、そのこだわりがやや過剰に感じられてしまう。ひと時代前のもののように。
大人部屋の横幅は、366cm(身長183cmの2倍だ)。
子供部屋の横幅は、183cm。
子供の身体にも標準形を仮定したか!
こうして美術館で建築模型を見ていると、あたかもみんな実現しなかった建築のように見えてくる。実現した写真を見ると違和感があるなあ・・・。
住宅(集合住宅も、個人の邸宅も)はミニマルな感じがするのに、宗教建築とか公共建築は、造形の自由度が高いように見える。
でも、色彩はどれもモノトーンだ。色つきの壁は、ないのかな?
「カバノン」あるいは「カップマルタンの小屋」。
丸太小屋ではなく、アルミニウムの壁に松材丸太の外壁を貼っただけとか。
それはまた、凝ったことを。
ここでひと休み。
* * *
1927年から38年という制作年になっている絵画。10年以上も宙吊りにしておくというのは、どういうことなのだろうと思いつつ。
すると、1932年から52年という作品が出てきて、これなんか22年か!
よく、取っておきましたね、という感もあるが、アーティストって、物持ちいいですね。
題して「ブルターニュのバイオリン」(メタモルフォーズ・バイオリン)
偏光ガラス、あるいは摺りガラス(いずれにせよただ透明なものではない)で囲まれたアトリエ。そのガラスを介して差し込む外光。
キャプションの「住むための機械」という文字が「産むための機械」に見えてきて可笑しい。
が、そこに共通する精神があるような気もする。
「最小限住宅」そして「徹底した材料の企画化・工業化」。
「このプロジェクトで実現されたものはなかった」、か。ここでも実現されえない建築。
モジュールからなる建築、モジュールからなる都市。
建築家はタペストリーをインテリアの装飾ではなく、移動する絵画として考えていた、という。
ここで移動する絵画としての掛け軸を想起するが、さて。
「直角の詩」という詩画集のタイトルを長らく誤読していたと思った。
展示されている挿絵は、建築家の1930年代以降の絵画と通じる。
ビデオ「300万人の現代都市」から。
「建築面積は全体の12%だけで、あとの88%は緑地だ」
そうか、そもそも高層住宅というのは緑地面積を広く取るためのものだったか。
ただ高く建てればいいってもんじゃない。
色彩を捨象して形態に集中しているのだろうか。建築家は色彩に無頓着なように見える。
一方、チャンディガールの議事堂建築などを見ると、実現した建築の内壁は鮮やかだなあ。そしてタペストリーが室内において色彩の自由度を高めている。
おや、原色で塗られた壁が出てきたぞ。
(この建築家を誤読していたのではないか?)
確かに、外壁の色彩に自由度を与えるのは困難だ。
ということは、色彩の自由度を暫定的に留保するためのものとしての打ちっぱなし、なのだろうか。このモノトーンは、ただモノトーンであるのではなく、むしろ、そこに色彩の可能性を内在していると見るべきではないのか。
自由ということは・・・。いかようにもなりうる。
いかようにもなりうる可能性を留保しておくためには、(決して)いかようにかあってはならない。そのための白であり、そのための平面ということか。
自由度が留保されたまま、永遠に宙吊りになった状態。
あたかも・・・、すべて実現しなかったものであるように錯覚する。
が、それは既にそこにある。風雨にさらされ、時間の経過をはらんでいる。
それが、そこにあるのを見せられると、何か現実でないような。そこから浮遊したような。わざと古さをまとった、映画かなにかのセットのような。
ロンシャンの礼拝堂のキャプション。
「彼の主張してきたモダニズム建築ともかけはなれており・・・」その一文にすでに誤読が内包されているような気がする。
* * *
『ル・コルビュジエ 「建築とアート その創造の軌跡」』
会場: 森美術館
スケジュール: 2007年05月26日 ? 2007年09月24日
住所: 〒106-6150 東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー 53F
電話: 03-5777-8600