国立新美術館の「アーティスト・ファイル2008」を見てきたので覚え書きをしておく。
竹村京。展示室をぐるりと見回すと、壁を大きく使ったスケール感のある展示。面白そう。
ある作品のキャプションの書き方が、「イタリア製合成繊維、日本製絹糸、ドイツ製/日本製ピン・・・」と、どうして素材の出身国を明記してあるんだろう。
今の日本の中学生女子が作った刺繍と、1900年頃のドレスデンの同年輩の少女が作った刺繍を対比する作品。時代の違い、国の、文化の違い、規範意識、制度性、なんだかいろんなことを思う。
さっきの作品の、キャプションであえて国籍を露出させているのと、どこか通じるような気がしないでもない。


ベッドが水車みたいに縦にぐるぐる回るようにしつらえたインスタレーション。これが本当の回転ベッド、というところか。ベッドの回転にからみつくように何枚もの洋服が円を描く。作家の「親愛な」人がかつて身にまとったものなのだろうか。
映像作品の中のパフォーマンスでは、作家本人とおぼしき女性が、顔に半透明の紙の仮面をつけたまま、その上から化粧をしたり、デスクでPCの前に向かったりと、いわば生活の情景を演じている。場所は、この展示室、そして、壁には彼女自身の作品。
彼女の半透明の仮面が、顔を覆う薄皮、表皮というふうに見えて、であれば、壁面に掲げられた半透明の紙も、すべてこの世界を覆う表皮なのだろうか。
そんな半透明の表皮に覆われた空間の中で、自分自身の表皮をさらに塗り重ねる作業をする。作家は、顔から剥がした表皮をそっと自分の作品に組み込んで去っていく。
ひょっとすると、さっきのベッドにまとわりついていた洋服というのも、実は表皮なのかもしれないと思う。表皮が親愛な者との思い出を表象して、ベッドと共に回りつづける。
半透明の紙の上に、そこだけ刺繍された白い糸は、まるで熱した牛乳の表面に張った皮が、白く繊維状に固形化して、今まさに浮かび上がったようなものかと思う。
エリナ・ブロテルス。入り口に掲げられた「春」という写真。彼女の黄緑色のカーディガンが光をはらんで羽衣のように軽い。どこかあらぬほうに意識をやりながら、何を考えているのか、含み笑いをするような表情。
これも作家自身なのか、野原に裸で横たわり、あるいはバスルームでシャワーを浴び、あるいはモデル然にポーズをつける女性。
青みがかった靄のような色が覆う単色の画面の奥に、かすかな丘の稜線とその下に点々と明かりが見える。
そして突如現れる異形の風景。苔に覆われたゴツゴツとした岩肌。氷が覆う海面。といって、それは何か物珍しいものを撮っているという風でもない。異形と思えたのは、あくまでぼくにとって、ということなのだろう。
旅人、と題された写真。背中を向ける作家とともに丘の上からフィヨルドの湾を見ていると、まるで自分もその場所に立って同じ景色を眺めているような気がしてくる。このタイトルは、ひょっとすると、作家自身が旅人なのではなく、この写真を見る者を旅人に変容させるという意味で、旅人なのかと思う。
入り口の「春」と出口の「離婚写真」の対比。無数の言葉が今にも堰を切りそうで切れない、そんな感情をたたえて、ふるえている作家の表情。
白井美穂。この人の作品のうち「The Creave Act」「西洋料理店 山猫軒」は、先日のBankARTでの「食と現代美術」展でも見た。
初見の「L’Amour」と題された作品。細かいけど、スコップの使い方が分かってないなあ。雪かきスコップで土は掘らないでしょ。と、雪国育ちの私は突っ込む。
越後妻有で撮った映像らしいけど、まあ、実際にはこんな田舎はないし、こんな夏はないだろう。そんな一種のファンタジーと見える。都会からやってきた人が見た、ひと夏の夢、まぼろしという趣。その点は、山猫軒も同様なのかな。スクリーンが物干しのシーツだったのは面白い。
「The Creave Act」に登場するのは、デュシャンの英語の講演原稿をたんたんと読み進む作家と、BankART界隈に集うアーティスト/パフォーマー達。最初、BankART1929の地下でこの映像を見たときは、ささやかな感動があったのだけど、それは再見しても変わらない。
芸術というわけの分からないものにとりつかれた者たち、その物狂いと、それを承知で敢然と突き進む決意。あるいは蛮勇。作家はそれを静かにアジテートするものとも見えるが、その身振りがどこまで本気かどうかはよく分からない。
佐伯洋江。シャープペンシルで細密に描きこまれたパターン。これはもう工芸といってもいいんじゃないかと思うくらいの細かさと、そのモチーフ。あるいは日本的と見えたり、あるいは西洋ふうと見えたり。
ただ、最近、あちこちの展覧会でこういう細密な書き込みをされた作品を目にすることが多いような気がして、それらからの大きな跳躍は、ざっと見ている分にはあまり感じられなかったことを告白しておく。
祐成政徳。まずは、展示室に足を踏み入れた先に見える、巨大な三つの風船の姿に圧倒される。笑ってしまいそうなくらいバカバカしくも巨大で、逆にいうと、そのことだけに気をとられていたら、この展示室はさらっと出てしまっていたかも知れない。
一旦、この大きな展示室を脇から出て、外の見える休憩室に出たところ、そこにも氏の小品が展示してあって、それらをしけじけと眺めるうちに、さっきの巨大な風船も、また少し違う思いで見るようになった。
何か、物体のカタマリ感と、その表面みたいな関係で、これらの作品を突き通して見ることができるような気がしてきた。壁に掛けられた亜鉛版の表面パターンの面白さに感じ入っていると、ふと、カタマリというのは、むしろ表面を見るためのものという気さえしてくる。
一方で、この作家のもうひとつの作品である、一連の旗の作品は、どう考えればよいのだろう。旗となると、もう表面しかないものだが。
ポリクセニ・パパペトルー。こってりとしたプリントだなと思う。顔料系インクプリント、というのは関係があるのか。
そのせいか、どの作品にも濃厚な含意があるように感じられる。あるいは寓喩的な、何か寓話の一場面のような。
何かしら不穏なたたずまい、表情をたたえた少年少女。いや、この写真は全部少年少女か。
なぜこの少女は、こんな色目づかいで荒野の真ん中に横たわっていなければならないのだろう。真っ赤なマニキュアをして。
その風景に何かを見ようとする俺をおちょくっているのか。
そこに物語を見るのは、見る者の内側にある物語を、写真と見る者とが対話を通じて(精神分析医のように?)引き出されているものかと思う。何か意味ありげ、いわくありげに見えるものは、自分の中の意味をまさぐられているのだと思う。
さわひらき。最初は、個々のスクリーンの前に立ってしばらくその映像を見つめていようと思った。が、(むろんそれでも構わないのだろうが)しばらくして展示室内にあるすべてのスクリーンが同じ映像を映し出したのに気づき、これは全体として見るべきだろうと思い至った。
それぞれのスクリーンが別々の映像を映し出しながら、不意にひとつに収斂する時間帯がある。ふと、映像のオーケストラという言葉が浮かぶ。
映像の中の古い振り子時計が、まるでメトロノームのように、いやに早いリズムを打ち続け、それが始まり、終わるときに、このオーケストラも始まり、終わる。
この展示室では、すべてのスクリーンを一度に視野におさめることはできないかと思った。が、そのうちに、例の古い時計を映し出すスクリーンの真横に立つと、その角度から、すべての映像を一望することができることに気づいた。その意味でも、時計の映像が、このインスタレーションの結節点ではないかと思った。
市川武史。一瞬、平凡なインスタレーション作品かと思った。が、無造作に床に置かれた透明なビニールの風船のひとつに、ふと近づくと、風船はぐらりと動く。そしてさらにそっと近づくと、まるでその動きを察して逃げるように動く。この動きが、ふわりとやわらかく、繊細で、生命感をたたえて絶妙なのだ。
これは、動く彫刻、観客と反応しあう彫刻だと思った。
* * *
「アーティスト・ファイル 2008 – 現代の作家たち」展
会場: 国立新美術館
スケジュール: 2008年03月05日 ~ 2008年05月06日
4月29日(火)、5月6日(火)は開館、4月30日(水)は休館。
住所: 〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2
電話: 03-5777-8600
* * *
追記:
この展覧会の図録は1600円なのにずっしりと分厚く充実感あり(まだじっくり読んでないけど)。
しかし、この重量級の図録を提げて持ち帰るには、購入時に入れてくれるビニール袋では、はなはだ心もとない。
ということで、この展覧会に行くときは、大き目のカバンか、別にトートバッグでも用意して行ったほうがよいですよ。

コメントを残す