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チェルフィッチュという人たちのことは、かねてその名前だけはどこかで耳にしていたので、機会があったら見に行きたいと思っていたものだ。
といっても、彼らが実際にどんな舞台をやる人たちなのか、ほとんど前知識がなかった。
先日の六本木クロッシング展に、いちおう彼らは出展していることになっていたのだが、展示室では、彼らの旧作の映像が何本か、さほど大きいとはいえない画面で上映されているくらいで、それも、意識して足を止めないと、そのまま通り過ぎてしまうくらいのささやかな展示だ。
本展に併せて、彼らの特別公演の企画があったのだが、うっかりしていて、気がついたときにはとっくにチケットは売り切れてしまっていた。


が、森美術館の広大な展示室の、ほとんど出口に近いあたりの壁にしつらえられた液晶の画面を、休憩がてら、腰を下ろしてぼんやりと見ているうちに、ぼくはすっかり席を立てなくなってしまった。
さあ、「演劇」的なるものを、今まで何度見てきたか。決して演劇ファンとはいえないぼくだが、それにしても、「演劇」と名のつくものを目にする時にいつも付きまとう、あの一種の気恥ずかしさは、いったい何なのだろう?
森美術館でチェルフィッチュの映像を見ているうちに、例の気恥ずかしさから自由でいられる演劇というものが、もしかしたらあるのかもしれない、と思ったのだ。
さて、六本木のスーパーデラックスで、彼らの公演『フリータイム』を見た。
多分、森美術館で見た映像が、ぼくにとって、言ってみれば予防接種みたいに効いていたんだろうと思う。あの映像を見ていないほうが衝撃は強かったんだろうけど、その分、異物感を消化するのにかなり時間がかかっていたかも知れない。
会場の様子は、どういうふうに言えばいいのかな、階段状の客席が二列あって、その谷間にあたる空間が、公演の場所になっている。
そこにはテーブルと椅子が並んでいるのだが(ファミレスの店内をイメージしたものだろう)、それらはすべて脚が途中から断ち切られている。要するに、床上浸水で半分水没しているような外見だ。あるいは、水というより、バリウムみたいな白くて粘度の高い流動体に埋もれているようにも見える。
テーブルの上には、ブラインドを通り過ぎたような短冊状の光が差している。
俳優が無造作に登場して、「フリータイムが、を、はじまります、はじめます」と一言。
そんな、セリフなのかMCなのかよく分からない言葉とともに開演した。
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最初、ファミレス店員の西藤(さいとう)さん役(とおぼしき)の女性が出てきて、ゆるいセリフを言いながらクネクネ動き出したのを見て、おお、これだこれ、この動きだ、と妙に感心してしまった。
一方で、ちょっとだけ照れくさかった。ぼくの勝手な予想ストライクゾーンに、すっぽりとはまったからかも知れない。
ほかの俳優さんは、クネクネもだらだらも、もう少し控えめだったように思う。
後でパンフレットを見て驚いたのだが、西藤さん役の人(安藤真理さん)だけ、経歴の欄がほとんどスカスカなのだよね。あとの俳優さんは、それぞれ他の劇団での経験があるようだ。
安藤さんだけが、ちょっと特別に見えたのは、彼女が、少なくとも実践としては、チェルフィッチュと岡田利規氏だけを通過してきているからなのだろうか。
逆にいうと、他の劇団を経由してきている人は、自然に演技する、ということが、どうしても身についてしまっているということなのだろうか。
そう考えると、この一見意味のない動きやポーズは、既存の演劇を意識して、かなり周到に試みられているものなのか。そんなことを思った。
ファミレス店員の西藤さんも、出勤前にファミレスで日記を書く派遣社員の女性も、隣のテーブルに居合わせた二人組の若い男の客も、みんな、境界線があいまいである。
要するに、大抵の場合、例えばファミレス店員の役だったら、それはひとりの俳優さんだけが演じますね。
でも、ここでは、ひとつの役を何人もの俳優さんが、少しずつずらしながら演じているように見える。
数学の集合の図みたいに、いくつもの円が重なり合ってできている。
もちろん、中にはその重なりの部分が大きい人もいて、その人のことを、その役の俳優さんと言ってもよいのかも知れない。が、そう言い切ってしまうのもどうか。
かえるのうたの輪唱みたいに、微妙に情報の違うセリフが時間差で追いかけてきて、その中から、それぞれの人の輪郭が浮かんでくるようだ。
そんなふうに、ひとつの役がいくつもの視線から成り立っているということと、自分の「フリータイム」が、自分の部屋じゃなくて、ファミレスの中にあるということは、通底しているようで面白い。
自分ひとりだけじゃ、自分の時間という実感を持てないのだよね。一方で、仕事をしている間は、自分の時間じゃないと思っている。他人から自分の時間を奪われていると思っている。
他人から決定的に介入されるわけじゃなく、それでいて、他人のぬるい視線にさらされる中で、自分の居場所を感じるのは、いったいどういうことなんだろう。30分という限られた時間の中に永遠があることを信じるのは、どういうことなんだろう。
でも、そうした感覚は、なんとなくぼくにも分かる気がする。
今そのへんにある空気感みたいなものを写し取ろうとして、かなりいいところまで来ているという気がする。
だけど、その空気感みたいなものをそのまま写し取るのは、多分、できないことなんだろうと思う。おそらく、その差異が、見ていて気恥ずかしかったり、照れくさかったりするのだろうと思う。作家は、役者は、永遠に大変ですね。
最後に、改めてパンフレットを読み返していて、安藤真理さんが、インタビュアーの「『フリータイム』はどんな作品でしょうか」という問いに答えて曰く、
「お客さんによってどう見えてもいいと思うんですけど、意味とか内容のことを考えてみると、プロレタリア演劇かと。」
プロレタリア演劇かよ! この言葉の唐突感に最初はとまどった。が、よく考えてみれば、この空間に立ち現れる人たちは、ファミレス店員も、派遣社員も、おそらくはあの男の二人組も、みんな非正規雇用者だ。みんな、自分の時間、自分の自由な時間を探してるんだ。何十年ぶりに、そういう時代になったんだ。
* * *
チェルフィッチュ「フリータイム」
作・演出: 岡田利規
出演: 山縣太一 山崎ルキノ 下西啓正 足立智充 安藤真理 伊東沙保
舞台美術: トラフ建築設計事務所(鈴野浩一、禿真哉)
音楽: 小泉篤宏(サンガツ)
宣伝美術: 仲條正義
会場: スーパーデラックス
スケジュール: 2008年03月05日 ~ 2008年03月18日
住所: 〒106-0031 東京港区西麻布3-1-25-B1F
電話: 03-5412-0515 ファックス: 03-5412-0516

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