昨日の公演では、手前側で行われていることがよく見えなくてフラストレーションがたまった。そこで今日はあえて前のほうに座る。
7時半前くらいに会場に着いたが、黒い衝立が、パフォーマンスが行われる空間を隠しているのは昨日同様。しかし今日はライブ・ペインティングはない(後で、衝立が倒れるときに裏面に昨日のペインティングが残っているのがちらりと見えた)。
そのうちに、まるで人形、人型のように、衝立の中央に女性が運ばれてきたのも同様だが、今日は場所が近いせいか、彼女の息遣いとともに上半身がゆれるのが見てとれる。これは、無生物のようにあえて演じる、という趣向なのだろうと理解する。


衝立が倒れて、紗幕の前に立つ長髪の女性も、あれは人間として現れているものではないのではないか。いってみれば、われわれを蠱惑するロボットやレプリカントの類として現れているのだと思う。そして、彼女たちが下着姿をさらして違和感のない状況を考えると、それはマネキンであり、モデルである。このモデルは、模型でもありファッション・モデルでもあろうが。着せられた洋服を嫌がるように自ら脱ぎ去り、再度着せられる繰り返し。マネキンが、最終的に、洋服を身に着けることで人間となる(あるいは人間の記憶を取り戻す?)ようだ。
昨日は類型的とも見えた集団での一連の動きが、今日は、そうあるべくしてそうある、と見える。一体何なんだろう、ダンサーのパフォーマンス自体は、おそらく昨日とそう変わらないことをやっているはずなのに。これは音楽の違いだけの効果なのだろうか?
同じ動きをもう一度見ることで、理解が深まるということもあるだろう。冒頭に書いたように、座席を前のほうに陣取っただけで、見づらい角度というのはほとんどなくなった。まして、ぼく自身の体調や気分も違う。いや、実はその違いが一番大きいのかも知れないが。
ことはダンスに限らないのだろうけど、生のパフォーマンスを見聞きするとき、演ずる者と見る者を截然と分けて、パフォーマンスだけを抽象的に語るというのは、あまり意味をなさないのだろうと思えてくる。理屈ではそういうものなんだろうと思ってはいても、今回、同じ公演を二日続けて、しかも異なる趣向で見ることで、余計にその意を強くする。
どのように説明すればよいのだろう? 例えば、回転オルゴールのバレリーナのように、まず彼らは、彼らとして回っているのだ。ここで回転オルゴールの例えを出したことからも明らかなように、彼らの動きと音楽との間によそよそしさが差し挟まれる余地はなく、音楽から動きが生まれると同時に、動きが音楽を奏でているようなのだ。
そして、彼らは、自転しながら高速で移動し、衝突し、変調する。それは、ベーゴマ遊びのようでもある。遊戯台の上にいくつものコマが投入され、火花を散らすようないきおいで互いのコマを弾きあう。そのような空間が立ち現れていた。
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MATAR O NO MATAR
出演: BABY-Q × World’s end girlfriend with kenichi matsumoto (sax), jimanica (dr), mujika easel (vo/pf), yuta uozumi (pc/hc)+ROKAPENIS+置石
会場: スーパーデラックス
スケジュール: 2008年08月06日 20:00~
開場 19:00
住所: 〒106-0031 東京港区西麻布3-1-25-B1F
電話: 03-5412-0515 ファックス: 03-5412-0516

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