吉行淳之介ではないけれど、向島は「原色の街」だと思った。
向島の街を歩いていると、不意に原色が目に飛び込んでくる。
それは、たわわに実った橙のオレンジ色であり、あるいは枝先からこぼれそうな南天の赤であり、ときには路地園芸の花の色である。
くすんだ家並みの、朽ちかけたトタンや板塀の合間から、鮮烈な原色がちらりと顔を出して、ぼくの足を止める。


そして、その背景は、いつでも青空だったような気がする。向島の空は広い。何しろ、背の高い建物が少ないから。
夏もいいが、やはり、冬の空がいい。冷たく澄んだ青空の、きりりと締まった空気を吸い込むとき、このうえない爽快感と開放感を覚える。
東京に暮らすようになって、何度新しい冬を迎えても、この感覚は、新鮮なまま変わらない。
東向島の現代美術製作所で、中里和人氏の写真展を見た。今年の初夏にハンブルクで開催された氏の写真展の、いわば凱旋の展覧会という。
今回の展示を見ても、どうしてもぼくは、くすんだ街に現れる原色に気づいて立ち止まる。
そして、夜の向島の、今にも闇に溶け込んでしまいそうな街に、ほのぼのと暖色の光が灯るのを見る。
しかし、と思う。くすんだ街の中に鮮やかな原色を見、暗闇の中に灯火を見るのは、いくぶん感傷的に過ぎたかと。
この街が、最初からくすんでいたわけはあるまい。常に暗闇の中にあるわけでもあるまい。
人が集まり、そして去っても、橙や南天は、変わらず原色を放ち続ける。
ぼくも変わらず、原色の前に足を止めるだろうか。その街に住む人の暮らしに目を向けるだろうか。
ちりばめられた原色を透かして、年を経た街の幻像を見ているのなら、いっそ、すべての街にゆっくりと年を取らせてやりたいとさえ思う。
* * *
中里和人 個展「夜・自然・もうひとつの東京」
会場: 現代美術製作所
スケジュール: 2008年09月27日 ~ 2008年10月12日
住所: 〒131-0031 東京都墨田区墨田1-15-3
電話: 03-5630-3216 ファックス: 03-5630-3216

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