快快の「SHIBAHAMA」を見た。
今回彼らが落語の「芝浜」を解体し、一見関係のない雑多な要素を混入し、シャッフルして観客に提示してみせたもの、それを高座の上でたった一人で演じきるのが、落語である。
いくら彼らが「芝浜」をずたずたに切り刻んでも、結局は、落語の、「芝浜」の、掌の上で踊っているにすぎないのではないだろうか?
快快のメンバーが次々と繰り出してくる飛び道具を見ながら、ぼくは改めて、落語の包容力と柔軟さ、そして強靭さについて思いを馳せていた。
この思いは、今年の4月に清澄白河のSNACで、今回の公演のパイロット版というべき彼らの「スナック『しばはま』」を見たときから変わらない。
ふと、その昔、ジャイアント馬場が語ったと伝えられる「シュートを超えたものがプロレスである」という言葉が思い浮かんだ。
和服姿のさえない中年男性が、扇子と手ぬぐいだけで、夢と現実のイリュージョンを現前させるのが落語である。ぼくの落語への信頼は揺るがない。そして、そのイリュージョンを実現するのが、落語家の「芸」だろう。
アプローチは違うけれど、空間にイリュージョンを現出させるという点をとれば、快快の「SHIBAHAMA」も、これまで様々に演じられてきた「芝浜」という演目のいちバリエーションと言ってよい。いわば、今ふうに演出された芝居噺の変種。
ぼくは今回の快快の公演から、落語の可能性の広がりを見た。落語というのはこんなに自由なものなんだ。外から照射されて、はじめて気づくこともある。若手の噺家さんで、今回の公演を見た人はいるのだろうか。自分たちの世界の豊かさを再認識するためにも、この公演を見ておく価値はあった。
もうひとつ思ったこと。「芝浜」という演目の現代性、あるいは近代性というべきか。この落語の中で提示されている価値、例えば夫婦間の愛情にせよ、勤労の美徳にせよ、今でもさほど異論なく受け入れられるものだろう。つまり「芝浜」の世界と今われわれが生きている世界はつながっている。辛うじて。
落語ファンなら承知だろうが、この「芝浜」という落語は、江戸を舞台にしてはいるものの、おそらく明治になって三遊亭円朝が創作した、ある意味「新作」といってもよい演目である。この落語の中に、現代に通底するイデオロギーが現れているのは、むしろ自然なことだろう。
本来、落語を「芸」と「テクスト」に分けることは適切ではない。二つの要素は、落語家の身体の中に一体不可分のものとしてある。が、そうでありながら、テクストとしての落語を成立させた特異点的な存在が、ほかならぬ三遊亭円朝であった。
そうであれば、今回の快快の公演は、あるいは円朝の「芝浜」だからこそ可能だったものかも知れない。でも、それが単に「芝浜」というテクストを解体して再構築するだけの試みであれば、円朝の掌の上から逃れることは簡単ではないだろう。
その点では、公演の最後部でメイドコスプレ姿の北川陽子氏が男からの一方的な愛情を振り払うように語った愛の不毛こそが、円朝の仕組んだプログラムから超え出る可能性を期待させてくれたのだが、どうか。
