正直言いますけど、聞いていてあんまり心に響いてこないトークだったな。
むろん、対談のところどころには、それなりに印象的な箇所もあったのだけど。
おそらく、今日この場に集まっている人たちのほとんどは、ホストの高山氏、ゲストの桂氏のどちらかの馴染みのお客さんですよね。そういうお客さんたちは、素直に二人の話を聞くんだろうけど、こちらは性根がひねくれているから。別に演劇ファンでもないし。
でも、ここで語られている言葉が、もしこの場を離れて、会場の外に出たら、この街で暮らしている人たちにちゃんと届くのかな。どうも上っ面を撫ぜているだけのような気がしてならない。

とはいえ、せっかくなので、二人のトークを聞きながら(そしてビールを飲みながら)、ぼんやり考えていたことを覚え書きしておく。
昔、映像機材が高価だった時代は、機材を持つ人がすなわち表現者だった。機材を買うだけの財力のない人は、そもそも表現行為から疎外されていた。
ところが、機材が廉価になって、容易く入手できるようになると、表現をする人と、それを受容する人との区分は不分明になった。
それは確かにそうだが、こうも言えると思った。機材が民主化(?)した分、余計に制度が浮かび上がってきたのではないか。
では演劇はどうか。演劇と日常が限りなく近づいたとき、演劇が演劇として成立する境界条件も、やっぱり制度性なのかな。
演劇のレディメイドということを考える。演劇という文脈でやっていれば、それは演劇ということか。

記憶術としての演劇、という言い方は面白く聞いた。
中世の記憶術はぼくは不勉強なのだけど、この言い方を、とりあえずは字義どおりに、記憶する技術として理解すると、演劇とは、目の前の現実をコーディングして、記憶し、さらにその記憶を再現する、一連の技術といえるのかも知れない。
もしそのような理解でよければ、記憶術という言い方が適当なのは、昔ながらの、コンベンショナルな演劇だろう。
サイトスペシフィックな、一回性の「演劇」なるものがあるとしたら、それはむしろ、記憶「術」ではなくて、記憶そのもの、あるいは、今まさに記憶されつつある何ものかというほかないのではないか。そこには、「術」からはこぼれおちてしまう何かがある。
演劇が記憶術なら、そこにはある種の普遍性があるはずで、芝居の巡回公演などというものが成り立つのは、まさにそのことを示していると思った。

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『すみだ川アートプロジェクト 高山明トークシリーズvol.2~隅田川のほとりにて、東京スカイツリーをきく~「桂英史×高山明 」』
会場: アサヒ・アートスクエア
スケジュール: 2009年07月30日 19:00 ~
住所: 〒130-0001 東京都墨田区吾妻橋1-23-1 アサヒスーパードライホール4F
ゲスト: 桂英史(文化理論、東京藝術大学大学院映像研究科准教授)
進行: 高山明(演出家、Port B主宰)

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