ぼくは、いま現在もこれまでも、芸術だの文化だのに携わって飯を食ったことはなく、また、かつてそのような活動を行う組織に属したこともない。
そのことが幸いしたというべきなのか、これまでぼくは、もっぱらアートを見る側、受け入れる側の人間であるという立場に安住していることができた。
いったんそのような側に身を置いてしまえば、アーティストは常に自分とは別世界の住人であり、こちらは一方的に讃嘆してさえいればそれで事足りた。
そういうものだろうと思っていたし、また、そういうものだと思おうとしていた。

ところが、ここ数年来、「市民参加」や「市民との協働」をうたうプロジェクトのいくつかを、割合に近い場所から見るようになって、アーティストと非アーティストの区分は、ぼくが思い込んでいたほど自明なものではなく、非アーティストも、アートを「やる」側に転化しうるのかも知れないと考えはじめた(とはいえ、実際に首を突っ込んでみれば、むしろアーティストのアーティスト性が浮かび上がる場面が現れることに気づくのは、後の話である)。
そのうちに、いくつかのきっかけを経て、自分のアートに対する思い(いかにもゆるい物言いだが、今のぼくにはこの程度の言葉の力しかない)を「アクチュアリテのなかを通したいという誘惑」に駆られるようになる。
これは、何か外部の組織や外在的な力に求められてのことではなく、まったくぼく自身の内的な要請によるものであった(ほんとうに、そうなのか?)。
このような思いを抱えた者たちが、もしほかにもいるなら(いると信じるが)、その者たちが偶然に出会い、各自の内発性を保ったまま、互いのつながりを介して、思いを外部化することはできないものか。
ぼくは、ぼくなりのアクチュアリテを通す道を探している。
意を尽くすに言葉は心もとないが、この一連の講義が始まるにあたって、改めて自分の立ち位置を整理しておきたくなったので、書きとめておく。
同じようなことを前にも書いているかも知れないが、ご容赦願いたい。

さて、今回の講義の話。
全体としては肯うべき論旨なのだろう。ただ、講師が次々に取り出して見せる盛りだくさんの情報量に追いつこうとしているうちに、時間が来てしまった。
刺激的な話だとは思うが、手さばきがあざやかだったせいか、いま思えば、予定調和の中の刺激という気もする。
終わってからなんだか怒っているおじさんがいた。
多分、もっと荒れたほうがいいんじゃないか。
荒れるとまではいかないにしても、冒頭で主催者側の方が言っていたようには、講義の最中に自由にバーカウンターで飲み物を頼んだり、お手洗いに立ったり、という雰囲気でなかったのは残念なことだった。
「フェス公共圏」を語る場が、もう少しフェス的であってもいいと思った。

講義全体を振り返ってみて、講義の前半の総論的な部分と、後半で挙げられていたさまざまな事象がうまく繋がらなくて、ぼくの中でどうも収まりが悪い。まるで方向の違う2本の線分を無理矢理1本の直線にしようとしているみたいだ。
もっと言えば、後半の事象を積極的に取り上げるために、前半の言説が用意されていたようにさえ感じた。

今回の論旨を理解しようとしつつ、一方で、どこか素直に受け入れきれないのは、1989年以降のさまざまな動きを、ぼく自身も同時代的に体験できたかも知れない位置にいながら、結果的には体験できなかったという思いが尾を引いているのかも知れない。
クラブカルチャーや、レイヴカルチャーといったものには、一定の親近感は覚えるけれども、かつてぼく自身がその中に浸かっていたことはなく、それらを無条件に称揚するほどの知識も体験もない。
例えば、今回の講義で取り上げられていたジェレミー・デラーの「世界の歴史」にしても、確かにもうひとつの「世界の歴史」ではあるのだろうが、だからどうした、という感がなくもない。
さらにいえば、それは、もうひとつの「企業による略取」の歴史ではないのか。
いずれにしても、アカデミズムの言葉が、サブカルチャーを語るのには、ちょっと身構えてしまう。

ベルリンのラブパレードに石野卓球が出演した際の映像が流されていた。
この映像は初めて見たので、100万人の群衆が熱狂する様子は単純にスゴイと思う一方、別に100万人も集まらなくてもいいだろ、という気もした。
大群衆が熱狂するさまをこれでもかと見せつけられるほど、こちらはそれを冷やかに見てしまうところがある。
広場に鳴り響くリズムや、体を揺らす若者たちの姿を見て、いつかテレビで見た、どこかの日本の祭りの様子を思い出した。太鼓がリズムを打って、大きな山車が出て。
ここで語られている「フェス」と日本の祭りは、どう違うのだろうか(別に同じものでも構わないけれど)。
1年に一度、100万人を集めるよりは、100人とか50人とか、その程度の集まりが年中あちこちで発生しているほうが、都市にとってはよいようにも思う。

いささか寂しいのは、今回の講義で取り上げられた事象の中に、ぼくと同世代の30代、40代の会社勤めをしている人たちの影が薄いことで、皆「立ち止まらず」「考えず」、この「資本主義者の理想郷」を生きているのかと思う。
「権力や資本の側の巧妙な取り込みや飼い慣らしに回収されない方途で」アクロバティックに身をかわしつつ生きるべきは、誰よりもサラリーマン諸氏ではありませんか、ご同輩!

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AAF学校2009「思考の基礎体力」第1回〈芸術と政治1〉
会場: アサヒ・アートスクエア
スケジュール: 2009年07月28日 19:00 ~
住所: 〒130-0001 東京都墨田区吾妻橋1-23-1 アサヒスーパードライホール4F
講師: 五野井 郁夫

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