
観客は会場のひとつ上のフロアから入って、ここで荷物とコートを置いていくように指示される。そして、特別の白い衣装を着せられる。
こういうふうに書くと、なんだか「注文の多い料理店」みたいだ。
この場では、演じる者も、見る者同士も、外見上の有意な差は消滅することになる。
全員にまったく同じ衣装を着せることで、観客と演者との境界を徹底して攪乱させるつもりなのだろう。
これでは、誰が客で誰が演じ手なのか、容易には判別できない。会場に足を踏み入れた途端、不意に疑心暗鬼に襲われる。
(ふと、去年の夏に東京ワンダーサイト渋谷で見た、雨宮庸介のパフォーマンスでも同様の気分を覚えたことを思い出す)
が、しばらくすると、目が慣れてきたのか、たたずまいがどこか微妙に違う人がいることに気づく。これが演者なのだろう。
もっと徹底するのなら、演者にも入口で配っている公演のパンフレットを持たせればよかった。あるいは客からそれを奪うか。
天井からキュイキュイいうノイズ音が静かに降りてくる。
メガネをかけた小さな女の子が跳ね回っている。母親に連れられて来ている彼女は、演じ手側ではないようだが、後ほど、彼女がこの日の公演においてトリックスターとして機能することがわかる。
「あたらしい世界」と題された公演。この作品の制作は、「あたらしさについての考察」から始まった、とある。
開演してしばらくは、むしろ、クラシックな、伝統的な前衛をやっていると思った。
例えば、もちろんぼくは写真でしか見たことがないけれど、実験工房のバレエ公演を今やったらこういう感じになるのではないか・・・そんなことを考えていた。
男と女、女と女、男と男の一対一の動きを、ぼくは、伝統的な一種の格闘技の演武を見ているように見ていた。高天原で相撲をとるとこうなるのではないかと思われた。
共有できそうなイメージで一番近いのは、モンゴル相撲を見ている気分だ。つまり、既知の動きに似ているのだけど、どこか微妙に違う、独特な動きということだ。そのズレがある。
あるいは、架空の国の伝統芸能を見ているような気になってきた。そして、その国の伝統衣装は、演者だけでなく、会場に散在する全員が同じように身に着けているのだ。それはコートのようであり、ガウンのようであり、浴衣のようである。
ぼくはどこかで見たブータンのお祭りの写真を思い出した。自分も写真の中のブータンの人になったようだ。ブータンに運動会があったら、こんなふうだろうか。
エレクトロ、エスノ、そしてノイジーな音が鳴り続いている。
柔道着。様式美。
未来都市。80年代のニューウェーブ音楽。
洗濯をするような独舞がぼくの目の前で繰り返し行われている。
そして、スライディングしてはそれを受け止める動きの繰り返し。
目の前の動きの激しさに、体の摩擦がたてる音を幻聴する。
青い照明の中に一瞬静止するかに見える表情の恍惚。
演者は激しく動く。客はひざを抱えて見ている。
これでは、動く人と動かない人との非対称が際立つと思った。
同じ衣装を身に着けているがゆえに。
が、その目の前で際立ちを崩すトリックスタートしての少女。
黄色の照明の中の狂気の気配と陶酔。そしてそれを柱の陰から覗き見する少女。
1対1=2の構造から、1の構造、そして3の構造に変化しているように見えた。3というのは、2と2の間を行き来する中間子の存在。
この公演は、余白が大きいと思った。観客が書ける余白が大きい。
そのうちに、3on3のバスケットボールのような集団球技だ。
はなればなれに。そして黄昏。
ミニマルな動きと荒い息遣い。
精神病棟。
新しいものはすべて旧いものの中から生まれる矛盾。未来派の懐かしさ。
新しさを突きつめれば突きつめるほど、おかしなことになる。
新しいものはどうやって生まれるのか。天啓のように。雷鳴に打たれるように。
新しいものは常に人智を超えたものとして現れる。
会釈をする女の子に笑顔を返したことによって、「出ていないのに出演している気分」(長谷川寧氏)
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『アサヒ・アートスクエア・レジデンスプロジェクトvol.1 群々「あたらしい世界」』
会場: アサヒ・アートスクエア
スケジュール: 2009年03月13日 14:30 ~ 2009年03月15日
住所: 〒130-0001 東京都墨田区吾妻橋1-23-1 アサヒスーパードライホール4F