本日初日

8月になった。空き缶を出し、洗濯物を干す。ラジオから本日梅雨明けの知らせ。冬物のスーツをクリーニングに出すのを忘れていたことに今さら気づいてクリーニング屋に持ち込むなど。

午後は銀座に。銀座もコロナ以来初かも。東銀座の駅で降りたら歌舞伎座に本日初日の垂れ幕が。そうか、歌舞伎公演も今日から再開だったか。何かと難しいことも多いだろうが、とにかく恙無きことを願う。

久し振りに森岡書店に顔を出した。茅場町に店舗があった頃からたびたび伺っていたが、銀座に移転した後は数える程しか来られていない。といっても、銀座に店が移ってもう5年になるのだとか。早いなと思うばかり。

石原稔久さんの名前は初めて知った。福岡で活動されている陶芸作家とか。本展では、自作の陶製の人形やオブジェと、それらを表紙にあしらった絵本が展示されている。つまり、人形を作るだけではなく、それを絵本の体裁に仕上げるまでが作品制作なのだ。

絵本の帯には、著名人らしい人からの推薦の言葉が記されている。どこかで聞いたことがあるようなないような名前。手に取って開くと、あれ、中のページはすべて真っ白。これは見本か何かなのかなと、いぶかしげに見ていたら、あえてこのような白いページにしているのだと森岡さんが教えてくれた。手にした人が自分なりのイメージを広げたり、家族で話し合ったりしてくれることを作家は期待しているのだという。ちなみに、その帯の文句もすべて作家が書いたのだとか。

どの絵本も、ページを開かない限り、実際にこのまま書店に並んでいてもおかしくない程に作り込まれている(いや、ここは確かに書店なのだが)。徹底しているというか、一杯食わされたというか。実に手の込んだユーモアなのだ。

その後、銀座界隈を歩いて、何ヵ所かギャラリーを回っているうちに時間切れ。

夜は楽天地スパに。9,396歩。

芙蓉の花が咲きました

通り道のトタン塀の上にピンク色の大きな花が咲いている。毎日のように前を歩いているのに気がつかなかった。

芙蓉の花で合っているかな。ムクゲの花とよく似ていて迷うが、同時期に花を咲かせる近縁種であるらしい。

ムクゲにしても芙蓉にしても、私が子供の頃から咲いていたのだろうけど、特にこれといった記憶がない。富山ではあまり名前を聞かなかった気がする。南のほうの花なのだろうか。似合う、似合わないで言うと、北陸の風景には似合わない気はする(個人の感想です)。

朝はドトール。朝刊に戸田ツトムと旭堂南陵両氏の訃報が出ている。戸田氏のほうは前日にSNSで流れてきたのを見て知っていたが、そうか、旭堂南陵さん亡くなったのか。上方の人でもあり、この人の講談も聞かずじまいだった。名前は時々目にしていた。記事にもあるが、大学に入ったり、選挙に立候補してみたり、講談の枠を壊そうともがいていた人という印象があった。

戸田ツトムといえば、私が学生の頃は、ちょっと洒落た装丁を見れば、大抵この人の仕事だった。しばらく名前を聞かなかったが、二、三週間程前か、あるイベントの後、居合わせた装丁家の方と話したら、その方の師匠が戸田ツトムだという。その時、本当に久しぶりに戸田氏の名前を聞いて、あの頃の印象に残る装丁のいくつかを思い出したりしていた。

昼は珍しくハンバーグ。

月いちで診てもらっている本所三丁目の医院に。その後本所吾妻橋の薬局に寄ってから、所用のある錦糸町に。結果、三ツ目通りから浅草通り、さらに四ツ目通りあたりを歩いて、本所地域をぐるりと半周する格好になった。

夜の散歩はパス。夕方ずいぶん歩いたからいいでしょう。11,280歩。

折りたたみ傘がない

鞄の中にあるはずの折りたたみ傘がない。取り急ぎ長傘をさして出掛ける。

しかし折りたたみ傘をどこにやったかな。昨日は巣ごもりだったから、傘は一度もさしていない。すると、その前の日に、どこか出先で忘れてきたか。いや、もしかして何かの拍子に部屋の中で鞄から出して、そのまま家に置いてきたということはないか。

実は月曜の燃やせないごみの日に、もう使わないだろうと思って、予備の折りたたみ傘を出したばかり。もし本当に無くしたなら、すぐに代わりを注文しないと、いつ梅雨が明けるか分からないし。

こんなふうに、折りたたみ傘のことが頭から離れないまま午前中が過ぎた。

昼になって、まずオリナスのスタバに電話。それらしい忘れ物はなかったという。続いてもう一件の立ち寄り先に電話したら、よかった、そこにあったか。

安心して食事をいただく。今日はしまほっけ。

われながら私は魚を綺麗に食べる。私は特段取り柄のない男だが、これだけは取り柄のひとつに挙げてもいいと思う。魚を綺麗に食べるコツは、多少の小骨や皮は気にせず食べてしまうこと。そんなのコツでも何でもない、ただ食い意地が張っているだけではないか、とご指摘の向きもあろうが、自分でもそう思う。

食後にコーヒー。勧められるまま自宅用の豆も購入。

夕方、予定をひとつすっぽかして、先方に迷惑をかけた。完全に時間を思い違いしていた。折りたたみ傘が出てきたことに安心して、頭の中がお留守になっていたのだろう。

帰宅して、疲れが出たのか、身体が少しだるい気がする。このご時世だから念のため体温を計ると、35℃台。だいたい私は平熱が低めなので、体温は異状ないようだ。しかし、もし平熱が33℃台という人がいたら、これでも高熱ということになるんだろうか。

家で適当に飯を食って、早々に寝てしまった。8,021歩。

梅干しとサイレン

午前中に一時間程隅田川沿いを散歩。

草や木が小さな花を咲かせている。こうやって散歩しなければ顧みることはなかった。多くの人にとってもそうだろう。

花は人に見られての花なのか、それとも花として花なのか。あれこれ思いを巡らすが、どうにも纏まらず言葉にするのを諦めてしまう。

常夜灯の背後に蝉の脱け殻を見つけた。近づこうとする足許を蝉が一匹ジジジと飛んでいった。この脱け殻の元の入居者かは分からない。

大きく横書きで「本所…」の後は何と書いてあるんだろう。亀沢町や横網町といった地名も読める。

いつもは隅田川の左岸を桜橋のたもとで川岸に降りてから白鬚橋方向に、つまり反時計回りに歩くことが多いのだけど、なんとなく今日は逆向きに、つまり桜橋を渡ってから右岸を白鬚橋に向かって歩いてみる。そんなささやかな違いでも、普段目に留まらない景色がある。

ずいぶん遅くなってから、散歩は抜きにして、自転車で銭湯に出掛けた。

両手で大きくお湯をかき混ぜながら湯船の中を歩き回るおじさんがいて、迷惑だなという顔をしていたら、程なく上がっていったので、それで静かになった。

この銭湯は天井が高い。他に客はいないし、いつにも増して広々として感じる。これだけの広い空間を独り占めできるのは、公共空間(銭湯もそうだ)ならではの贅沢さだろう。他には、例えば木場の東京都現代美術館の人気のない展示室でも同様の感覚が味わえる。

消防車がサイレンを鳴らして走っていくのが見える。どうやら近いようだ。心なしか、マスク越しに煙のにおいを感じる。

いかにも野次馬だけど、ちょうど自転車でもあるし、消防車が集まっているあたりまで行ってみた。消防隊の人がマイクを取って「浅草○丁目で火災の通報でしたが、只今火災の事実を確認中です」と言ったのは、火事は大したことがなかったか、あるいはいたずらだったのかも知れない。

そうなると、さっき私がマスク越しに感じた煙のにおいは何だったのか。梅干しを思い浮かべると唾が出る。サイレンを聞くと煙のにおいがする。

巣ごもりの日はこんなものか。6,300歩。

眠くって仕方がない日

前夜は一時間おきに目が覚めて、よく眠れなかった。気候のせいか。眠りが浅いところで二度寝しては危険だから、思い切って起き出して、台所で洗い物をしながら、そうだ、せっかく早起きしたんだから、いっそサウナに行こうと思い立った。

というわけで、コロナ後初の朝サウナに。たまたまサウナ室で目に入ったテレビの星占いが最下位。まあ、今が底なら買いということです。

サウナでさっぱりして目が冴えてくれればと思ったけど、むしろ身体がほわっとした感じになって、眠くって仕方がない。

昼は鯖塩焼き。しっかり食べてお腹がくちくなって、眠くって仕方がない。

錦糸町で所用を済ませて、オリナスのスタバで休憩。今日はソイラテにしてみた。朝からコーヒーを何杯も飲んでいるのに、眠くって仕方がない。

帰宅して就寝。9,385歩。一日中眠くって仕方がなかったわりには歩いた。どこで歩数を稼いだんだろう?

朝刊読みくらべ

燃やせないごみの日。bだけ入力できないキーボード、その他諸々。

朝から近所の猫が遊んでくれた。私に向かって身体を投げ出すように横たえる。そんな猫も人も他にはいない。

ドトールで鞄から朝刊を取り出したら、うちで取っている新聞と違う。出掛けに郵便受けから取り出して鞄に突っ込んだ時は気がつかなかった。最近、この新聞の私の地域の配達店が、専売店から別の系列の販売店に変わったようで、配達の人がまだ慣れてなくて間違えたかな。

昼はソースカツ丼。食後、新しい配達店の電話番号を調べて、夕刊と一緒に朝刊を配達し直してくれるよう依頼。

アートトレイスギャラリーに。日曜日から火曜日までの三日間という短い会期の展示をやっているようなので、とりあえず見に行く。

女性の作家の二人展で、作家のうちひとりが在廊していたけれど、何と言うか、ずいぶん押しの強い人で、作品もしかり、あまり自分というのをぐいぐい押して来られると、こちらは腰が引けてしまう。

もうひとりの方の作品からは、社会と関わろうという意図は伝わるのだけど、その社会の認識がどうも模式的というか。どちらも感想を書くのに言葉を選ぶ。

錦糸町まで歩いて、別のドトールに寄り道してから帰る。小雨混じりで帰宅後の散歩は無し。朝刊二紙を読みくらべつつ就寝。9,739歩。

私の90年代

朝からの雨が上がって、外に出ると快晴。日射しが強くて、頭のてっぺんが焼けそうなくらい熱い(これは個人的な問題か)。季節が変わった気がした。

曳舟から浅草に。銀座線に乗り換え。

車内にパチッ、パチッという音がする。何かと思えば、私の対面に座った乗客が爪を切っているのだった。

スーツにネクタイ姿、グレーの髪をきちっと分けた、いやしからぬ風采の紳士が、膝の上に鞄を置いて、その上で手指の爪を切っている。

切り終わったら、爪切りをスーツのポケットに入れ、鞄の上に飛び散った爪を丁寧に集めて、持参の紙おしぼりに包んだ。

実にきちっとしている。しかし、きちっとした人がそもそも電車で爪を切るかなあ?

爪が綺麗になったら、今度は手鏡を取り出して何やら目元のあたりをチェックしている。今や、おじさんが電車の中で身だしなみを整える時代になったのだと感心する。

末広町で降りて、3331に。

「アーリー90’s トーキョー アートスクアッド」の最終日。案外空いてて少々拍子抜け。

先年の1968年や1980年代の美術を回顧する巡回展に続いて、1990年代も回顧やアーカイブの対象となったかと思うと感慨もあるが、本展はそこまで包括的ではない。でも90年代前半の東京という限られた時間と場所を共有する人なら引っ掛かるものはあるんじゃないかな。

何より、私自身が1990年に上京して大学に入って、95年に卒業して就職している(年数が合わないと言うなかれ)。私の90年代は事実上95年で終わっているし、その時代認識は本展と符合している。

当時の私はまだ自覚的に近現代美術を見ていなかったから、知らなかったり見逃したりした展示やイベントも多い。が、本展の重要な参照項目のひとつとなっているレントゲン藝術研究所には何度か足を運んだし、ささやかな思い出もある。

そういえば、本展とは関係ないのだけど、二、三年程前か、年少の仲間と喋っていて、2015年と言おうとして95年と言ってしまったことがあり、それも一回ならず何度もそう言い間違えてしまったので、すっかりおじさん扱いされてしまったのだが、つまり私の潜在意識の中で1995年と2015年は直結しているんだと痛感した。まさに失われた20年というやつ。

高田馬場に。早稲田松竹で「ラ・ジュテ」 「去年マリエンバートで」と「インディア・ソング」を続けて見る。いずれも初見。

現下のコロナ禍のため、かなり座席を間引いての指定席制になっている。上映時刻に来ても満席で見られない場合があるらしいので、早めに来てチケットを購入し、近所の銭湯で時間を潰した。

長年この界隈をうろうろしているのに、ここには初めて入った。私の好きなタイプの銭湯、つまり無色透明で少し熱めのお湯がたっぷりとしていて、水風呂がきりりと冷えている。サウナはないが、私は銭湯ではサウナに入らないから構わない。脱衣室も流し場も広々として気持ちがいい。何で今まで知らなかったかなと思う。

映画は三本とも参った。こういうやり方があるんだな…。細かな感想は改めて書ければ書きたいが、三本に共通した感想があるとすれば、映画というものが、映像の芸術であると同時に、言葉の芸術であるということ、あるいは映像(それは静止画であっても構わない)と言葉が絡み合ってイメージを喚起していくものだと思い知った。

結局、季節は変わらなかったようですね。11,477歩。基本、屋内にいたのに、案外歩いた。

オールド・ニュー・ノーマル

溜まった空き缶と段ボールを出した後、午前中は荷物が届くのを待って在宅。このまま一日ずっと家にいてもいいけど、気分転換に外に。と言っても、どのみち私の向かう先はサの三文字、つまりサンポかサウナのどちらか。雨が降ったり止んだりだし、今日はウナのほうにします。

駅に着いたところで小銭入れを忘れたことに気づいた。前にも書きましたが、私の小銭入れにはPASMO定期券を入れているので、電車代を払うのも癪だし、家まで取りに戻ることに。最近目にした川柳で「見てみたい魚くわえたドラ猫を」というのがあったけど、財布を忘れて出かける人は容易に見つかりますね。

楽天地スパに。今日は客層が大人なのか、雰囲気が落ち着いていて宜しい。館内放送で会話を控えるように言っている。前は言ってなかったように思うから、あるいはその効果か。

私は別にサウナでは一言も喋るなと言っているのではなく、少しは後ろめたさを持って喋ってほしいということです。

このまま静かなサウナが続いてくれれば有難い。この静かさがコロナ以後のニュー・ノーマルだと言いたいのではない。サウナブーム以前は、これがサウナの常態だった。

思えばコロナの前は世の中がどこか浮わついていた。端的には東京オリンピックに向けてそういう空気が醸成されていたのだろうが、あちこちの領域でいわばプチ・バブルが起こっていて、サウナの世界では、それがサウナブームとして現れた。

ところが、パンデミックで一気にそのプチ・バブルが弾けた。

プチ・バブルに踊っていた人も多いことだろうが、むしろその時が非常態だったと思うべきだ。

能書きが長くなった。8,173歩。ほとんど出歩かなかったのに案外捗った。小銭入れを忘れたせいか。

水盤の花

寝坊して辛うじてゴミ出し。天気がまずまずのようなので溜まった洗濯物を片付ける。

曳舟から東武線に乗る。隅田川の水が心なしか茶色い。

浅草駅の文殊で朝飯とも昼飯ともつかないもの。地下鉄ホームの自販機で小銭を片付けがてらお茶を買おうとしたら、10円足りず取り消したりしているうちに目の前で電車のドアが閉まって3分無駄にした。

上野御徒町で降りて、鈴本演芸場七月下席昼の部に。

開口一番 柳亭左ん坊「寿限無」
柳亭左龍さんのお弟子さんらしい。遅刻して途中からになってしまった。
落語 春風亭ぴっかり☆「動物園」
ぴっかりさんの落語は久し振り。「鈴本珍獣動物園」の園長を女性に設定していた。女性の噺家さんの演じる落語は、主な登場人物の誰かが女性だと入っていきやすい気がする。
曲独楽 三増紋之助
板の上に独楽を五つ並べて回す「五つ独楽」で、中央に置いた黄色い独楽だけを回す。四苦八苦の末、見事成功。
落語 林家彦三「権助芝居」
新二ツ目。前名の彦星(ひこぼし)は、元不良だったので非行防止から取ったというのはネタなんだろうか。そうは見えない端正さを感じる。正雀門下ならではの芝居噺を口演も、私はあんまり入っていけず。
落語 柳家さん喬「そば清」
一転、ぐっと引き込まれる。何でもないように交わされる言葉が、この人の手に掛かるとしみじみとした可笑しみを帯びる。
漫才 ロケット団
鳥人間コンテストの中止と大リーグの大谷とプロレスの大仁田の取り違えをしつこく繰り返して笑わせる。あとは師匠のおぼん・こぼんいじり。
落語 五明楼玉の輔
患者にガンの告知ができない弱気な医者の話。「財前五郎」というみたい。
落語 春風亭小朝「代書屋」
小朝さんを聞くのも久し振りだが、金髪に赤い格子縞の着物で高座に現れる姿はイメージ通りの小朝さん。釈台を置いて、お馬鹿な客と代書屋のやり取りから、客が鼻笛を鳴らして「あなた間違いなく蓄膿症」で落とす。笑いどころを盛り込んでいるが、正直今の空気じゃない感じ。
紙切り 林家二楽
まず「桃太郎」、桃太郎がお供の犬を連れて。客席から題を募って「カメラマン」、写真カメラマンがカメラでガメラを撮る様子。「梅雨明け」は、「おーい、つゆあけてくれよ」と言いながら、蕎麦を手繰る客の前に湯桶を持った蕎麦屋が立つ。
落語 春風亭一朝「たいこ腹」
一朝さんの「たいこ腹」は、ぐっと鮮やかさを増して、登場人物の輪郭が際立つよう。

ものまね 江戸家小猫
小猫さんといえば、僕らの世代には、この人のお父さんにあたる、テレビタレントとしても活躍されていた、先の小猫さん、後の四代目猫八さんを思い浮かべる。今の小猫さんは、お父さんと比べて地味なようだが、本職の動物の声真似では、お父さんに追い付き、あるいは越えているのではないか。犬、羊と山羊の啼き分け、鴬、ダチョウ、アルパカ、アフリカで群れを見たというヌー。
落語 古今亭志ん輔
コロナ禍で知った家飲みの味、鯖の水煮缶詰に醤油を垂らして、そして立ち飲みでホッピーと、まくらで飲み助の酔態をたっぷり見せてから、多分「替わり目」の冒頭、俥屋さんを帰すところまで。
落語 春風亭一之輔
公演先の神戸のホテルでオートロックの部屋から閉め出されたというまくらから、この間も聞いた、旅の噺家がやたら物価水準の安い田舎の村でお大尽扱いされるというネタ。面白いけど。
粋曲 柳家小菊
都々逸の間に文句を挟み込むのを「あんこ入り」と言うそうだ。豆腐屋さんの都々逸に新内節のあんこ入りで。
落語 橘家圓太郎「厩火事」
圓太郎さんをちゃんと聞いたのは今回が初めてではないかと思う。いかにも江戸前の噺家らしい雰囲気を感じる。師匠の小朝さんが軽く演じている分、この人の貫禄が際立つが、お年は私と十程しか変わらないのね。
スポーツ好きでトライアスロンやマラソンもこなすという方だけあって、板橋のご自宅から鈴本まで歩いて通われるとか。その途中、本郷の交差点で出会った、駒込五丁目在住(師の妄想)で白のスウェット上下に身を包んだ年長のご婦人がポケットから取り出したものは…というまくら。
髪結いの女房が仲人に年少の亭主との離縁を訴えながら、その実、心底亭主に惚れきっていることが次第に露わになっていく。亭主の本心が「もろこし」か「麹町の猿」かと案じる女房の可笑しさ。
亭主が家を守っているから女房が安心して外で働けるというのは、現代的なシチュエーションのようで、実は古くて新しいテーマということか。これを男女を逆にして、珍しく家事を手伝ったサラリーマンの旦那が、専業主婦の奥さんの大切にしていたものを壊してしまう、という話だったらどうかな。一転、凄惨な事態になるのではないか。

鈴本の階段室に飾ってあった絵だが、人形浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」のお三輪を描いたものだろう。操る人形遣いは誰か、知識の浅い私にはわからない。落款は清七呂と読めるようだが。

終演後、都バスで錦糸町に移動。所用を済ませて、ちょっと天気が怪しかったので電車で帰宅。

遅くなってから夜の散歩がてら、銭湯に。

この銭湯は洗い場と湯船が一階、水風呂とサウナが二階にあって、水風呂に入るには浴室内の階段を登らなければならないわけです。そして階段を登り切らないと水風呂の様子が見えないようになっている。

階段を登り切ったところで目に入ってきたのは、二人ならゆったり入れる程の大きさの水風呂に、全身に鮮やかな刺青を入れた、がたいのいい四人の男が身を寄せるように身体を沈めている様子。まるで水盤に花が咲くようでしたね。

家に帰ったら日付が変わっていた。11,907歩。

二胡の音色

休日。雨音を聞きなからいつまでも寝床でだらだら。今日は何の日だっけ。自分が子供の頃に存在していなかった祝日は未だにピンと来ない。ハッピーマンデーというのも同様。

朝は省略。昼はヒガムコでタマゴサンド。窓越しに雨が上がったりまた降り出したりするのをカウンター席から見ていた。

錦糸町で所用の後、森下の開座に。今日明日のアトリエ公演「あぶら火」を見に。今日だけは二胡の演奏が踊りと共演するというのも見てみたいと思った理由のひとつ。

と言っても、二胡という楽器について特に何か知っているわけではない。大体、今この小文を書くまで二胡と胡弓を混同していたし。越中おわら節とか、三曲萬歳なんかで使っているのは胡弓。

今回の竹下友美さんの二胡の演奏が特にそうなのか、概してそうなのか、知識がないから分からないけれど、メロディーと同じくらいに、ノイジーな効果音を奏でていた。バイオリンのピチカートのように弦をはじいてもいた。

二胡の音色は、宇宙と直接繋がっているような感じがする。楽器の形も、どこか宇宙から届く信号を受信するアンテナのようである。そしてその信号を音響に変換しているような。

前回開座で見た公演に続いて、渡部みかさんがキーボードを演奏していたが、今回はさらに岡庭秀之氏も鍵盤の前に座った。踊り手自身が楽器を弾くということもあって、余計に、踊りと音楽との関係に思いを致してしまう。単なる伴奏や、音楽に合わせて踊るといったことでないことは確かだ。どちらかが主従ということではなく、ひとつの源泉から産まれたものが、たまたま今、別の形を取っているだけという感じがする。さっきの二胡の伝でいうと、受信した信号を、音に表すか、身体の動きで表すかの違いと言おうか。

終演後、打ち上げ。詳細は省くが、再会も、新しい出会いもありの、楽しくも嬉しい時間。コロナ以前はこんな時間がこれほど貴重なものとは思わなかった。

というわけで今日は控えめに、7,829歩。