結局、人の目を気にして生きている。
自分が他人からどう見られるか、いつでも気になって仕方がない。
そんなことをいじいじと気にしているうちに、外出をするタイミングを逸してしまうこともある。昔からそうだ。
この気分が高ずると、しまいに部屋から一歩も出られなくなってしまいそうだ。いや、いっそ、そのほうが楽かも知れない。案外、世間でいう引きこもりの人たちも、こんな気分が高じて、外に出られなくなっているのではないか。
うちから外に出て、美術館に行く。ギャラリーに行く。
当然、人の目が気にかかる。
が、展示室に入って、ぼんやりと作品を見ているうちに、数秒ほど間があって、あ、今、この作品を見て、この作品のことだけを考えていた、と思う。ごくまれに、そんな瞬間がある。
その間だけは、他人の視線が気にならない。そのことに気がつくのは、いつも後づけである。気がついたときは、その感覚は醒めている。そしてまた、他人の視線に囲まれる。
他人の視線が気になるというが、実のところは話が逆で、むしろ、見ているのはこちらのほうなのだ。勝手にぼくがその人のことを気にしているだけで、その人からこちらに視線が送られているかどうかは関係ない。そもそも、ぼくのことなど、誰も見ていないのだ。そんなことはわかっている。
まるで、ひとり相撲を取っているようなものだ。
とにかく、今日も、美術館に出かける。ぼくは作品を見る。作品は、ぼくのことを見ない。
あーあ、自意識過剰な文章を書いてしまった。
でも、少なくともぼくが、美術を見る理由のひとつは、この忘我感を味わうことではないかと思っている。
* * *
写真は、ランドマークスクエアで見た、Michael Elmgreen & Ingar Dragsetの”Catch Me Should I Fall”、「落っこちたら受け止めて」。今日までの展示というので見に来た。
横浜トリエンナーレのフライヤーで焼きついていたイメージ。そうか、ここにあったのか。
気がついたら、飛び込み板の上の9歳の少年(の蝋人形)をただ見つめていた。この数秒間のためだけでも、この作品はよしとせねばなるまい。
* * *
「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ」瀧口修造