品川の原美術館で「生きる喜び−アフリカの二人展」という写真展を見てきた。
たまたま品川で時間があって、思い立って少し足を伸ばすことにしたので、展示内容や作家について前知識はなかった。
取り上げられている作家はいずれもアフリカの写真家で、二人とも白黒の写真というところは共通しているけれど、一見して作風はまったく異なる。
マリック・シディベの作品は若者の肖像写真や、ダンスや水浴びなどに興ずる様子の一場面を切り取ったもの。
これが印象的だった。
黒人の若い男女の、伸びやかで均整が取れた肢体の美しさ。
そして男女のカップルも友人同士も、みんな屈託のない表情と身のこなしを見せる。
最初、ぼくは彼らの写真を全然撮影年代を気にしないで見ていたのだが、みんな白黒写真なのに、どういうわけだか、どの写真も最近撮られたものなのだろうと思い込んでしまっていた。
が、急に気になってキャプションの撮影年を見ると、多くの作品が1960年代から70年代に撮られている。
彼らは当時どのくらいのクラスに位置していたのだろう。また、数十年経った今でも若者はあんなふうなのかな。そんなことも気になる。
彼らの写真を見ていて、自分のたるんだ体と屈託だらけの精神が、だんだん後ろめたくなってきた。
ぼくだけじゃない、今の日本に暮らしている少なくともぼくと同世代なら、みんな同じようなことだろうけど。
60年代のアフリカと現代の日本という物理的な距離以上に、彼らとぼくらの距離が、悲しいくらい隔たってしまっていることに気づく。
彼らはきっと、自分の肉体や身のこなしの美しさには、全然無自覚、無頓着なんだろう。
それでいて、自分の肉体の機能を屈託なく発揮しているように見える。
つまりそれは、踊ったり、泳いだり、カメラの前でポーズをとったり、あるいは男の子と女の子がくっついて、妊娠して子供を作ってとか、そういうの全部。
かたや、何かと頓着しすぎのわれわれは、スポーツジムに行って体を絞って、結果的に同じような体になったとしても、それは一回転倒して元に戻ったというか、もう肉体が元の肉体じゃなくて、洋服の一部みたいになっちゃってるわけでしょう。
例えば、今回の作品の中にも「アフリカのヘラクレス」と題された写真で、やたらムキムキに鍛えた男が写ってるのがあるけれども、そういうわざとらしいのは、どうも醜く見えてしまう。
でも、ぼくらは、一回意識してしまった以上、もう写真の中の彼らみたいにはなれないんだろうなあと思う。
むしろ、三島由紀夫がボディービルで体を鍛えていたというような話のほうにシンパシーを感じてしまう。
写真家の目には、彼らの肉体や身のこなしは、どのように見えていたのかな。
さて、もうひとりの出展作家J.D’オハイ・オジェイケレの作品は、人体をとらえた白黒写真という点では同じだけど、体といっても、もっぱら女性の後頭部だけを被写体にしている。
どういうことかというと、ナイジェリアの女性のさまざまな髪形を撮影した写真なのだ。
しかし、髪型という言葉から、これらの作品をヘアカタログに掲載されている写真のように思ってはいけない。
もとは髪の毛でできていたんだろうとおぼしき物体が、頭から生えている。
彼女達の髪は、それほど、ちょっと想像がつかないくらい奇妙な形に結われ、ねじられ、まとめ上げられている。これは、黒人特有の髪質による部分もあるのかもしれないけれど、むしろそれを十分に活かして結い上げられているともいえる。
写真家の言葉を引用する。
「ヘアアーティストが髪を結い上げるジェスチャーは、まるで彫刻家が彫刻をつくるように魅力的だ。ヘアースタイルはアート。アートは人生」
これは、写真家が被写体をアートだと認識している言葉なのかな。それとも、髪を結った人にもアーティストとしての自覚があるのかな。
あと、さきほどのマリック・シディベの写真の中では、若者たちは自分の体の美しさということにはあまり頓着していないように見えたけども、こちらの作品では、被写体の女性たちは過剰なくらい自分の髪を意識していることが面白い。