朝はコンビニ。昼は鯵開き焼き定食にする。帰りは某銭湯に寄り道。ここは区内では名の通ったところだが、私にはどうしてあんなに世評が高いのか分からない。今回もそう思った。帰宅して、しばらくしてから夜の散歩に出る。川を越えて歩き、汗になってきたところで某々銭湯に入る。お湯につかると、何もかもがちょうどいい。ここはいいなあとしみじみ思う。一日に二回銭湯に入ったのは初めてかも知れない(下諏訪の温泉巡りなどは除く)。22,877歩。

千住大橋の橋詰テラスに、日本中の河川と橋梁を相撲の番付の体裁で書き並べた「河番付」「橋番付」が掲示されている。どれも江戸時代の作という。

相撲同様、やはり郷土力士というのは気になるもので、まず河番付のほうで越中出身力士(河川)を見ていくと、東方前頭に神通川の名前が見える。同じく東方の上から五段目に見えるのは、変体仮名を使って分かりにくいが、黒部川だろう。四段目の中田川というのは、庄川のことらしい。西方の二段目に見える勝川というのはちょっと調べただけでは分からなかった。番付が結構上のほうなので、しかるべき格式の川なのだろうが。

橋番付に移って、東方小結の「越中舩橋」は、神通川の舟橋のことだろう(源のますのすしの蓋に描いてあるやつだ)。前頭二段目の「親部橋」というのは、音からすると今の小矢部橋だろうか。奇橋として知られていたという黒部川に架かる愛本刎橋の名前は見えないようだ。橋番付のほうは江戸と大坂の橋が多い。人や物資の往来の需要があっての橋だから、都市部に橋が多く架かるのは、当然のことだとは思うけれど。

河番付の行司役は、「隅田川」「宮戸川」「両國川」とある。江戸博のサイトを見ると、「江戸時代に隅田川とよんだのは大体汐入・鐘淵下流、少なくとも千住大橋下流からのようで、浅草観音の付近を宮戸川とか浅草川とよび、両国付近では大川とか両国川とよんだ」という記述を引用している。現代のわれわれの感覚では、上流から河口までのひと続きで一本の川として認識しているけれど、当時は流域部によって別々の川という認識だったのだろうか。

橋番付の行司役は「江戸両國橋」「江戸大川橋」と「千住大橋」。なるほど、千住は江戸の外だから、頭に江戸は付かないんだな。この大川橋というのは今の吾妻橋のようだ。また、かつては両国橋のことを大橋と言ったらしい。

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