早朝、台所に立って洗い物をしていたら揺れを感じた。わずかな間だったし、それが地震なのかどうかも判然としない位だった。

駅に着いたら電車がだいぶ遅れているようで、ホームに人が溜まっている。地震の影響だという。そうか今朝のは地震だったんだな、それにしても電車が遅れる程とは思わなかった。

しばらく待って到着した電車に乗り込んだが、案の定満員で、乗り切れない人もいる。コロナ以前でもここまで混むのは珍しい。

目の前で手摺を掴んでいる若い女性の手首に、小さくひらがなで「りれきしょ」と書いてある。どこかに履歴書を出すのを忘れないように書いたんだろうか。まさかタトゥーじゃないよね。

昼は数日前にも行った大衆食堂ふうの店で、ソースカツ丼。ここのカツの揚げ方は、卵とじにするよりソースを絡ませるほうが合っているかも知れない。

夕刻外に出たら、雨の降りが結構強いので、バスで錦糸町に移動。

所用を済ませて帰宅後程なく、Zoomでの読書会に参加。続き物の三回目だが、私が参加するのは初めて。

クレア・ビショップの『人工地獄』の書名がアンドレ・ブルトンの言葉から取られているというのはまったく知らなかった。もともと1921年にパリ・ダダのイベントの事後分析として書かれた文章のタイトルらしいのだが。

読書会の今回の対象の章で、まさにそのパリ・ダダについて触れられているというので、急遽申し込んだ次第。同じ章ではマリネッティの未来派のパフォーマンスや、ロシア革命後のメイエルホリドの演劇についても取り上げられている。

慌ただしく申し込んだので、取り急ぎ送っていただいたその章のコピーも十分読めていないし、本書の全体の構成も把握していないのだけど、そうしたブルトンやマリネッティらによる二十世紀初期の公衆を巻き込んだイベントやパフォーマンスを、現代の参加型アートの嚆矢として位置づけようという意図らしい。

しかし、第一感、現代の「アート」や「アーティスト」という概念で、当時のブルトンらの行ったことを説明するのは適当なんだろうかと思った。また、当時のブルトンは、それを芸術的なパフォーマンスと自覚していたんだろうか。自覚していたとしても、美術の文脈というより、文学的な文脈だったかも知れないし、もっと渾然とした行為だったかも知れない。

つまり、「現代アート」が、「参加型アート」という概念を持ち出すことで、かつてのブルトンらの行為を簒奪、矮小化して、アート・ヒストリーに回収する企てのように感じられたのだった。その手つきが気に入らないと思った。

20世紀は、文化芸術だけでなく、人員も資源もあらゆるものが政治や戦争に動員されていった時代で、それは今に至るまで続いている。意地悪な見方をすれば、「参加型アート」というのは、参加する主体からすればそういった言い方になるのだろうが、視点を反転すれば「動員型アート」ということではないのか。

というわけで、今日は控え目に。6,484歩。

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