高野寛さんの新譜が出ているのをすっかり忘れていた。
先月ラジオでかかっているのを偶然聞いたときは、すぐに買いに行かなきゃと思っていたのに。やっぱり、たまにはレコード屋もぶらつかないといけない。
今年1月に発売されたアルバム「確かな光」は、99年の前作「Tide」から5年ぶり10枚目のオリジナル・ソロ・アルバム。
5年ぶりねえ。
その間、ナタリーワイズでの活動もあったし、何組かのアーティストのプロデュースを手がけているということは聞いていたけれど、高野さんはこれまで大体年1枚のペースでソロ・アルバムを発表してきたから、改めて5年ぶりと聞くと、えー、もう5年も経ったのと思う。
我が事ながら、これまで過ごした5年を思うと、あっという間に過ぎてしまった気がするが、逆に、これから先の5年というと、途方もない先のような気がする。
ところが、あと1年、というふうに言われると、なんだか急に心が焦りだす。
まあこれはぼく自身の感慨だけど、ミュージシャンでも、1年ごとのアルバム制作を習慣のようにこなしている状況と、特にノルマや締め切りもなく、自然に曲を書きためているという状況とでは、作品に現れる心象もかなり違ってくるのではないか。
今回のアルバムを聴いて、高野さんからの近況報告というか、ああ高野さんも元気でおだやかな日々を送っているんだなあという私信を読んでいるような気がした。
そして、全体に肩の力が抜けた大人のアルバムという感がある。
というのは、高野さんにはどこか実験精神というか、新しもの好きの感覚があって、音楽からもそういう部分がダイレクトに伝わってくることがあった。例えば、ギターを原形を留めないくらい改造したり、テルミンを演奏したり、ライブでホースをぐるぐる回して変な音を出したり(確かそんなこともあった気がする)。
また、高野さんがラブソングやメッセージソングふうの歌を歌っても、なんだか優等生が不良ぶってるようなところがあって、どこか身の丈に合わないところを背伸びしているように感じることがあった。
もちろん、高野さんのそういう万年少年的な青さが大きな魅力だったりするのだが、今回のアルバムに限っては、気負いのない、等身大の高野さんが伝わってくるように思える。
高野さんは去年結婚されたという話をどこかで読んだけれど、あるいはそういうことも関係しているのかも。
あと些細なことだけれど、7曲目の「Sunshine Superman」を聞いて、お、高野さんが英語の詞を歌っている、と思った。
これはドノヴァンの曲のカバーということだけど、高野さんが全篇英詞の曲を歌うというのは、これまであまりなかったのではないか?
思いつくところ、ファースト・アルバムに入っている「September Dream」くらいか。
その昔、シングル「目覚めの三月」のカップリングでロジャー・ニコルズの「Drifter」をカバーした時も、高野さんは日本語に訳して歌っていたし。
まあこれはぼくの考えすぎかな。トッド・ラングレンのトリビュートとかではやっぱり英語で歌っているのかも知れないし(実は未聴)。
そういえば、今回のアルバム名「確かな光」というのも、高野さんのソロ・アルバムで日本語のタイトルというのは、今回が初めてですね。
そのあたりにも、微妙な心境の変化を感じ取ってしまう。