ま、結局「ストーリーテラーズ」展は、後半部分をちゃんと見ないままに会期が終わってしまったわけですが。
やっぱり映像作品があると、どうしてもそれに時間を取られますな。
「シングルワイド」っていう、女の人がトラック運転して家に突っ込む作品も、あれもうっかりしているうちに2往復くらい見てしまったし、フィンランドの作家の「慰めの儀式」っていう30分近い作品も最後まで見た。だからどうだってのもあるんですが。
最初のグレゴリー・クリュードソンという人の写真。今まさに物語が動いているところを無理矢理静止させました、というような生々しさがある。どんな物語なのかはよくわからないけど、とにかく不穏さは感じる。女性が横たわっているやつは、実写版ポール・デルヴォーといった趣。
さっきも書いたハバードとビルヒラーという人たちの「シングルワイド」という作品は、ノーカットのカメラ回しを追いかけているうちに、あれ、この場面さっき見たよな、それが永遠に続くっていう。いつまでも回り続ける不穏さ。内容はよくわからない。
キャラ・ウォーカーという作家のインスタレーション。白壁に黒い切り絵とグレーの彩色。私のメモには「和製林家正楽」って書いてある。今回の展覧会のキー・イメージみたいに使われている作品だが、白人と黒人奴隷の物語だったのか。説明を読むまでわからなかった。そう言われて見直すと、なるほど、そういうふうにも見えてくるのだが。例えば普通のアメリカ人だったら、この作品を見てすぐにそうした背景が理解できるのだろうか。テーマを知らなくてもじゅうぶん想像的だとは感じた。
こうして見ていくと、ストーリーテラーと言っても、物語の筋そのものを語るというよりは、何らかの物語の存在を暗示しているという語り方のようですね。