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太田さんの「黄金座の物語」。
ラピュタ阿佐ヶ谷に行ったら、他にいくつかの映画関係の書籍といっしょに置いてあった。
買いそびれたままになっていたので、いい機会だと思って買いました。
今度いつかサインしてもらおっと(ミーハーだね)。
まあそれはそれとして、この本で取り上げられている映画。
古い日本映画といっても、ほとんど戦前の作品じゃないですか。古すぎー。
まだ半分くらいしか読んでいませんが、うーん、ちょっと感傷に流れ気味かなー。
悪くはないですよ。だって、ぼくもこういうのが好きなんだ。それを真ん真ん中に投げられたということ。
また続き読も。


読了した。駆け足だけど。
章を読み進めるごとに、誤読していたことに気づいてきた。
最初は、この本を、私小説的に読んでいたのだろう。
例えば、主人公の男。
女にも出世にも関心なく、淡々と日々の仕事をこなし、定時で上がったあとは、ひとり、酒を飲み、古い映画を見る。
はっきりと年齢のわかる記述はないが、30代、まあ行って40ほどか。
いずれにしても、今の自分とそうは違わないはずだ。
それでいて、あんな、恬淡と生きていけるものなのだろうか。
いや、自分だって、あういう暮らしを想うことはある。また、気取ることさえある。
が、それは・・・。言ってしまえば、自分の中の見栄や下心、あるいは劣等感、そんなものが、屈折して顔を出しているのだ。
必ずしも、自分を露悪的にいうわけではない。ぼくくらいの年代の男なら、たいていはそういうものではないのか。違うのは、それの顔の出し方だ。
ところが、それに対して、あの主人公は、そうした、心の底のドロドロしたものの存在を、おくびにも出さない。
客観的には、ぼくも、日々の仕事にはさほどかかずらうことなく、ひとり、酒を飲み、また、ここ数日など、ただ古い映画を見るためだけに、阿佐ヶ谷くんだりまで出かけている。だが、内面はどうだろう。
最初の数章は、この主人公と、今の自分を重ね合わせるように読みながら、この男にかすかな羨望を覚え、一方で、この男の不自然なほどの恬淡さに、抵抗を感じてもいたのだ。
が、読み進むうちに、考えが変わってきた。
これは、太田さんのファンタジーだ。そこに、主人公の男と自分を重ね合わせるような、変なリアリティーを持ち込んではいけない。
主人公の男と、その他の登場人物は、深く関わりあうようで、微妙な距離感を保ったまま、物語が流れていく。
そしていつか、ファンタジーも終わる。最後のくだりで、一瞬、再び自分と男を重ねてしまいたくなる気持ちに駆られたが・・・。まあ、ああでもしないと、いつまでたってもファンタジーは終わらないのだろう。

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