日経の朝刊に、渡辺淳一が「愛の流刑地」という小説を連載している。
いつから連載が始まったのか。普段、新聞に目を通しても新聞小説はまず読まないし、もともと小説好きとはいえないぼくは、実はこれまで、この作家の作品をまともに通読したこともない。
だいたい今だって、この文章を書いていて、渡辺淳一といえば、数年前に映像化されて話題になったあのベストセラーのタイトル、あれ何だっけ?
「楽天地」?そりゃ錦糸町だろ。なんてことを思っていた次第なのだ。
だから、日経を開いても、ああ今は渡辺淳一が連載してるのね、くらいにしか思っていなかった。
ただ、時折、朝刊に似つかわしくないような性描写が出てくるのは目に留まった。


人気作家である主人公が、冬香という名前の、夫も子もある女性と不倫の関係になった。冬香と夫との関係は冷え切っている。情事を重ねるなかで、冬香はこれまで感じたことのなかった性の喜びに目覚めていった。
最初のころの話はこんなところだろうか。もっとも断片的にしか読んでいなし、うろおぼえの記憶だけを頼りに書いているので、ぼくの説明に正確性はあまり期待しないでいただきたいのだが、まあ、こうして自分で説明していても、通俗的といえば通俗的。
さて、ある日、情事のさなか、主人公の作家は、高みに登りつめた冬香を、不意に、首をしめて殺してしまう。その後、主人公は殺人罪で起訴され、裁判が行われる。
さあ、この小説、最初は目に留めることも少なかったのに、話が裁判のくだりにきて、がぜん内容が気になりだした。
主人公は、陳述を行っている若い女性検事について、自分たち二人の心情をまったく分かっていないと感じている。また、彼女はおそらく性的な経験はあまり豊かではないのではないかという印象をもっている。
一方、彼の弁護を担当する弁護士は、おそらく主人公と同年輩なのだろう。弁護士は、今回の事件を、単なる殺人罪ではなく、冬香からの嘱託殺人として弁護を行う方針を立てた。それは、情事の最中で冬香自身が「殺して」と何度も繰り返したということによるのだが、主人公の作家は、この弁護士はまだ自分たちのことを理解してくれていると感じながら、二人の関係が「嘱託殺人」というような法律用語で説明されてしまうことに割り切れなさも感じている。
この小説自体、主人公である作家の視点で書かれているので、どうしてもそっちのほうに感情移入しながら読んでしまうのだが、女性検察官が言っているのは、二人の関係の中から、冬香の死という事実と、主人公が冬香の首を締めたという行為だけを取り出して、それがある法律のある規定に該当しているということだけだ。
といっても、法律は人間のすべての行いを事細かに定義しているわけではないし、そもそもそんなことは無理な相談だから、問題の行為にどの規定を適用するのがふさわしいのかということには、判断する人の立場によって、当然、別の見方だってありうる。だからこそ弁護士という仕事は大事なのだ。
結局は、法廷という場で、どっちの説明がもっともらしいか、ということなのだろう。
しかし、主人公の作家が感じている割り切れなさのゆえんは、もっと根深いところにあるのではないか。
法律は、ある特定の行為になにがしかの刑罰を結び付けるけれど、基本的にはその法律を定めた国、日本なら日本のすべての人に対して等しく適用される。
だが、男女の間の情愛や官能などは、そんなに簡単に一般化、普遍化できるものなのだろうか。その当人、あるいは当人同士以外には容易に容喙しえない領域があるのではないだろうか。そのような領域をあえて言語化すれば、何か大事なものが抜け落ちてしまい、バラバラになってしまう。
自分たち二人の秘事だったことが、法的言語に翻訳され、第三者同士によってかまびすしく法廷の中で交わされるさまを見ながら、主人公の作家は、それが自分のことであって、すでに自分のことではないような、所在のなさを感じていたのではなかろうか。
もっとも、法廷では個別の行為について、とりあえずの法的な評価を下すことはできても、それが当事者の人生においてどんな意味をもつのか、あるいは社会的にどのように位置付けられるのか、そんな価値判断は、すでに司法の領域を越えているともいえる。それを考えるのは、それこそ渡辺淳一のような作家の領分なのだろう。
朝刊小説 渡辺淳一の「愛の流刑地」
http://www.nikkei.co.jp/honshi/20041206ta7c6000_06.html
上の文章を書いてから見つけた。そうか冬香って富山の生まれだったのか・・・。そういや風の盆のくだりは読んだ記憶があるなあ。

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