某月某日
浅草あたりを自転車でうろつく。
途中、小沢さんの「ぼくの浅草案内」にあった写真と同じ家並みを見つけて思わずパチリ。今度入ってみるか・・・。
まあ、アレコレあってから、行きしなに見つけて気になっていた「ちゃんぽん」と暖簾のかかった店の前を再び通ると、どうしても誘惑に逆らえない。
お世辞にも新しいとはいえない店だが、店内は綺麗に掃除してあって、ステンレスの銀と壁の白さが目にまぶしい。調理場には60代くらいのお父さん二人。
カウンター席に腰を下ろして、瓶ビールとチャンポンを頼む。


スポーツ新聞を開いて、ビールを手酌しながらチャンポンが来るのを待っていると、よろしかったら召し上がりますか、と、モツ煮込みの小鉢が出る。
豚モツとこんにゃくを味噌味でさっぱりと煮た、どうということのないモツ煮込みなのだが、しかしこの、どうということのなさが、なかなかないのではありませんか。小鉢を差し出すときのお父さんの含羞とあいまって、なんともいえず嬉しい。
中瓶が空になって、チャンポンが来た。
ぼくは長崎にも行ったことがないし、本場のチャンポンがどんなものかも知らないが、そういった能書きはさて置いて、これはしみじみと旨い。
野菜たっぷり、やさしい塩味のスープ。なぜか、さつま揚げが入っている。口中にあふれる滋味が、不思議とスープに合う。
このへんに勤めている人は、きっと毎日でもこの店に通うのだろう。ただそのことが、なんともいえず、うらやましい。
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某月某日
国立近代美術館に吉原治良展を見に行く。
向かいは皇居である。こんなところに居酒屋などあるのだろうか。
ビルの狭間を歩いているうちに、結局、神保町まで来てしまった。
良くないパターンになってきた。いくつも店はあるのだけど、これといった決め手がないまま、選びあぐねているうちに、足はくたびれ、時間ばかり過ぎてしまう。
せっかくここまで来たのだから、と、三省堂の裏にある「兵六」に入ろうかと思った。
ぼくはこの店のことは、なぎらさんの「東京酒場漂流記」で知った。
が、今まで一度も入ったことがない。ぼくには、なぜか、入りにくいのだ。
店の前まで来ると、扉が半開きになっていて中が見える。いかにも常連ふうの客でカウンター席はぎっしりだ。にぎやかに談笑する声が外まで聞こえる。
相変わらず小心者だな、とひとりごちながら、やはり今回も、入る勇気がなかった。
ますますいやなパターンだ。なんでもいいから、とにかくどこか適当な店に入ろうか。
特にあてもなく、靖国通りを渡った。
裏通りを歩いていると、おでん、と書かれた小さな看板が目に留まった。
渋いえんじ色の暖簾のかかった小体な店だ。ぴし、と閉まった引き戸のすりガラス越しに、やわらかい明かりが漏れる。
このへんは、今まで何度か歩いたことがあるけれど、こんな店、あったかな。
しばらく逡巡して、意を決して入ってみることにした。
店の中は、意外なくらいに奥行きがある。テーブル席では、数人のネクタイ姿の先客がふた組。カウンター席には客はいない。おでんが鍋いっぱいに煮えている。
ひとり客であることを告げると、煙草を吸うかどうか聞かれた。おでん鍋の正面が、禁煙席ということになっているようだ。白木のカウンターが気持ちいい。
まず瓶ビール、それからおでんを三品頼む。大根、キャベツ巻、焼きどうふ、と。お通しは白菜の漬物。
奥のテーブル席からは、ぽつりぽつりと、出版社や書店の固有名詞が聞こえてくる。どこかの出版社の古手の社員なのかな。なるほど、神保町か。
喧騒の酒場もいいけれど・・・。今日のぼくには、こういう雰囲気のほうがよいようだ。
ビールに代えてお酒、そして新しょうが(こないだからクセになっている)。お酒をもう1本。
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一杯入って、いい気分で両国まで帰ってきた。
このまままっすぐ帰ればいいのだが、ちょっとスケベ根性を出して、今まで入ったことのない飲み屋の前でも通っていこうか。入るかどうかはともかくとして・・・。
大通りから少し入ったところに、飲み屋が二軒向かい合っている。どの店も、外から中の様子は見えない。こんな繁華街でもないところに、ぽつんとある店なんて、このへんに住んでいる常連客ばかりじゃないのかな。
店の前まで来ると、不意にそのうち一軒のドアが開いて、出てきたおばちゃんと目が合った。どうやらこの店の人のようだ。よし、これも何かの縁、このまま入っちゃおう。
さっき顔を出したおばちゃんとご主人の二人でやっている店のようだ。カウンターの中で串を焼くのはお父さんのほう。奥のテーブル席では、5、6人の勤め帰りらしい男女のグループが飲んでいる。
案外、普通の居酒屋だと思う。いや、失礼な言い方ですけど、外からじゃ全然様子が分からなかったから、ヘンな店だったら嫌だなあと思ってたんですよ。
カウンター席に腰を下ろし、ビールを一本頼むと、それだけで結構食べでがあるくらいのお通しが付いてきた。悪いけど、ちょっと飲み食いしてきたから、そんなには注文できないよ。
串焼きを2本だけ頼んで、そのうちビールが空いたから、ウーロンハイを作ってもらった。
おばちゃんに話を聞くと、地元の客はあまりいないそうだ。むしろ、このへんにある職場の勤め人が多い。意外な気もするが、そういうものかも知れない。
このあたりには、昔からの住人の地縁が濃密に残っている。本当の近所で飲むのは、周りの目をはばかることもあるのだろう。一方で、古い工場が次々とマンションに建て替えられて、新しい住民がどんどん流入してくる。マンション住まいの人間は、近間ではまずお金は落とさない。
この店のある場所も、ぼくの今の住まいも、町内は違うけれど、墨田区の石原というところにある。
さあ、この石原という地名を、皆さん何と読みますか。
正解は「いしわら」。まあ、こういうのに正解も不正解もあるのかどうか知らないが、少なくとも昔からこのへんに住んでいる人は「いしわら」という。
どのあたりに住んでいるか聞かれて、ぼくが「いしわら」と言ったら、最近は「いしはら」と読む人が多くなった、と、おばちゃんが言う。
でも、東京は「わら」って読むんじゃないの。「よしわら」とか。
そうねえ。
カウンターの向こうから、お父さんが、「おだわら」もそうだ、と続ける。
石原慎太郎はどっちだっけ?「いしはら」?
そういえば、さっき見てきた吉原治良展、あれは「よしはら」なんだ。関西の流儀なのかな、「はら」と読むのは・・・。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、夜が更けるのです。

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