いやはや、こんな調子で思い出しつつ書いていったら、いつまで経っても終わりそうにないですが。だってまだ、小沢さんの話、冒頭も冒頭ですよ。
そもそも、今回の小沢さんの話には、ちゃんとタイトルがついていまして、題して「小沢昭一の吉原へ御案内」。
小沢さんは、今回、春風亭小朝さんから大銀座落語祭への出演を依頼されたとき、江戸の吉原の話をしてほしいと言われたそうです。小沢さんそれを聞いて、いくらなんでもおれはそんなに古くないよ、だって。
落語の廓噺って、今のお客さんにはなかなか理解してもらうのが難しいそうですね。噺の背景も、出てくる言葉も、われわれにはすっかり縁遠いものになってしまった。だから、廓噺をするときは、噺のまくらでしっかり説明しておかないと、お客さんがついてこないのだとか(これは円菊さんが言ってたんだっけな?)。
ともあれ今回の小沢さんは、休憩後に控えた二席の廓噺に向けて、入船亭扇遊さん言うところの、最高のまくらということになった次第です。


東京にもかつて遊郭がありました。吉原、千住、品川、亀戸、亀有、小岩、鳩の街・・・。目蒲線の武蔵新田というところにもあったという。
小岩の「東京パレス」は、もとは進駐軍のための慰安所で、時計工場の女子寮を接収して遊廓としたもの。入口の正面に「検梅所」なるものがあって、それを見ると、小沢さん、なんだか安心したんだって。東京パレスには進駐軍用だった名残りにダンスホールがあって、そこで女の子と踊りながら、交渉が成立すると、女子寮の中に消えていったのだとか・・・。
赤線というのは、警察がその地域を赤鉛筆で囲ったところから来ているんですね。
そんな赤線地帯も、昭和33年3月31日の売春防止法の施行とともに消えました。
ところで小沢さんは幼少の頃から「売春」という言葉に非常に興味があったそうで、「売春」って何だろう? 当時の子供にできることは、辞書を引くことくらいしかない。さっそく辞書で「売春」を引くと、「春をひさぐこと」。これでは何のことだか分からない。念のためと「春」を引くと、「冬の後、夏の前」。ただし、最後のあたりに「春をひさぐ」の用例があって、意味はと見ると、「売春を見よ」。
その後、小沢さんは吉原大学で売春の理論と実践について学ぶことになるわけですが・・・、いえ、もう実践の方はすっかりで、今は理論一辺倒ですか?
小沢さんが吉原に通うようになって、吉原神社の古い石碑に彫られている銘文を読むと、奉納者の名前に添えて「新吉原・・・」とある。新があれば古もあるのか、と疑問に思って調べると、これがあったので、かつて古吉原というところがあった。
古吉原というのはどのあたりだったかというと、ここ銀座から地下鉄で2、3駅行った日本橋。ここを降りて左に行くと・・・。いや、左に行くとお堀にぶつかって皇居じゃないの。そんなところに遊廓があっちゃいけない。
小沢さん、うっかり日本橋を左に曲がったようなふりをして、これは話を皇族ダネに持っていくためのフリですね。嫁と姑のいさかい、あんなのはどの家だってある話じゃないですか。嫁は今、海外に行ってるんですか? しかしおとっつあんのほうも、海外に行ってもあまり好きにしゃべらせてもらえなくてかわいそうですね。ここで天皇陛下のマネ。「わが国の、過去の歴史に・・・、永六輔です」。
確かに永さんと声似てる。ただし話のスピードは3倍速くらい違いますが。永さんと天皇陛下は年も一緒なんだって。ということは、小沢さんのいくつ下になるのかな?
小沢さんの世代には、天皇が自分より年下というのは、やはりピンとこないようで、天皇といえばどうしても前の人、要するに昭和天皇。だけど、園遊会に招待されたこともないので、一度も昭和天皇と言葉を交わす機会はなかった。もし園遊会に招待されていたら、どんなふうに声を掛けてもらったか。
「売春のほうは、やってるの?」

“大銀座小沢昭一的祭 その2” への2件の返信

コメントを残す