音楽のworld’s end girlfriendを目当てに出かけたのだが、これが結構な拾いものだった。
ドキュメントでなく、あくまでフィクション、劇映画として成立させているところがいい。
障害者が出てくる映画というと、それだけで構えてしまって、見に行く前に腰が引けてしまうことが多いのだけど、これは、障害者の映画であって、そうでない。
主演の住田雅清氏がas himselfで登場しながら、それでいて、あくまで役を演じていることで、相対化している。それだけでなく、ある種の普遍性を獲得していると思った。
上映時刻の夜7時を少々過ぎて駆け込むと、出演者のひとりであるバミューダ★バガボンド(まさにこのときまで、このバンドのことはまったく知らなかったのだが)の堀田直蔵氏のトークショーの最中だった。
それなのに、客席は拍子抜けするくらいスカスカで、話を聞いているこちらが堀田氏に申し訳なくなってくる。
そういえば、この堀田氏もバンドのボーカリスト役を演じていて、これも、ドキュメントとフィクションをあえて撹乱しているようだ。
冒頭で重要人物と思えた堀田氏演じるタケ、そして女子大生の敦子は中盤であっさりいなくなってしまう。この違和感が消えないままに、ノイジーな音と映像に巻き込まれながら、話はどんどん先に進む。それに追いつこうとしているうちに、ディテールは次第に気にならなくなっていった。
テロルに突き進む住田氏を見ていると、ふと、彼の行動と、いわゆる非モテのメンタリティーとの通底に思い至る。非モテとしての障害者。一方で、障害者だからモテている、という部分もあるわけだが、袋の裏と表を返すように、その落差は大きく感じられるのかも知れない。
劇中で「出張ホステス」という言葉が出てきたように記憶しているけれど、そりゃ、障害者じゃなくなって、二十歳そこそこの女の子が食事や酒の相手に来てくれりゃいいと思うよ。しかも国のお金で。
そんなことを考えていると、この映画の主題が、障害者問題などではなく、モテ-非モテということにあったのではないかとさえ思えてくるのだが。
とすれば、彼のすべきことは、行きずりの酔っ払いを手にかけるよりも、彼のために用意されたバースデーパーティーを惨劇にすることだったのではないか? それこそ、この映画のクライマックスにふさわしいことではなかったか?
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ポレポレ東中野
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