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「〈わたし〉は〈わたし〉である」という命題を見て、もし〈わたし〉が、本当に完全無欠に同一の〈わたし〉だったら、そんなふうに自分自身を突き放して見比べる視点など持ちようがないだろうに。むしろ、これは「〈わたし〉は〈わたし〉なのか?」と疑問形に変えたほうがおさまりがいい。
河原温の電報に打たれた文字「I AM STILL ALIVE ON KAWARA」。一瞬、このONを作家の名前じゃなくて英文の前置詞と勘違いして意味を考えてしまった。我、いまだ生きて河原に在り、と。


高松次郎の「紙の単体」。緑も白も、ちぎった紙片を単純にもとあった位置に戻しているわけじゃないんだな。ていうか、そもそも紙というもの自体が、本来無数の破片(木片か)の寄せ集めであったことに気づく。作家はそれをスケールを変えて再現したというふうにも取れる。が、それが「木の単体」となると、話が違うか。いや、細胞レベル、分子レベルでの寄せ集めの記憶をよびおこすものかと勝手に考える。
「27 JUL. 1988」。これも河原温。収納箱の底に敷かれた新聞紙の見出しに曰く「第1富士丸徹夜の引き揚げ」。そういえば記憶の片隅に残っていた潜水艦釣り船衝突事件。ごく最近の例の事故があったから、あえてこの日付を選んだのか。それとも順序が逆か。
宮島達男のLEDを使った作品「Monism/Dualism」。しばし立ち尽くすうちに数字の変化の法則性の一部がおぼろげながら見えてくる。それにしても、どうしてゼロがないのだろう。
岡崎乾二郎の長いタイトルの作品。これは前に練馬で見たな。キャンディーやチョコレートの箱をひっくり返したみたいな、お菓子の家のような色が踊る。難しいことはよくわからないが、これだけきれいな色をこれだけきたなく塗るということもないものだと思った。
村上友晴「monos」。例えば火事というコトがモノになってそこに残ったかのような黒の中の赤。
鮭みたいに子供だけ残して死んでいければいいのになと思う。生きる意味というのを考えつづけるほどの強靭な精神力はないから。誰かから存在証明を求めたくなるのもむべなるかな。誰かさんや誰かさんみたいに会社から存在証明してもらっているわけではないから。愛の贈与を待ち望む相手もない。
草間彌生の絵は無数のヴァギナに見えて困った。
無数にあるということ。私という単数が分裂する。
金明淑の森。森の無数性。下生え、木の幹、枝。森の中のすべてが無数を無限に繰り返す。
これに対しては、林の複数性ということを仮に対置しておこう。
日高理恵子の木。木の枝のフラクタルな無限分裂。人間の生を思えば樹木の生は事実上永遠で、無限にその運動を繰り返しつづける。頭の中でその反復のイメージに身をゆだねていると不意に気が遠くなる。
ということは、一本の樹木はすでに無限の運動を内包していて、森はさらにそれを無限に繰り返す。無限×無限の運動。
それはもしかしたら単為生殖のイメージかも知れないと思った。
舟越桂のスフィンクス。埋め込まれたボルト、木ねじ、寄木の跡が、スフィンクスのサイボーグと見える。そしてジオングのようにも見える(単に足がないというだけか)。そういえばジオングもどこか両性具有のイメージがあるのだが(ぼくだけかも知れないけど)。支持体の木の棒にからみつく太い蔦。背後からしのび寄るヘビのイメージ。
牛腸茂雄の写真連作。なるほど、写真家は人から見つめられる稼業か!
戻って自画像、そして裸婦のデッサン。自画ということと忘我ということについて考える。
裸婦を目の前にして、描くか、抱くか?
忘我の境地にはどうしたら至れるのか。誰かを抱いているときでも自分のことばかり考えていた気がする。
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「わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者」展
会場: 東京国立近代美術館
スケジュール: 2008年01月18日 ~ 2008年03月09日
住所: 〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1
電話: 03-5777-8600(ハローダイヤル)

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