各地のコミュニティーアートについて話を聞いたり、自分も少々首を突っ込んでみたりして、時々物足りなく感じることがある。
アートプロジェクトというと格好いいけれど、要は、町や村がかりで大勢の人が参加するイベント形式で行われるものが多い。
それも必然なことだろうが、あるいはわれわれ見る側の想像力も衰弱しているのかも知れない。そんな大層な手をとらなくとも、わずか10センチ角ほどのデカルコマニー1枚に、自分の全存在が揺さぶられることさえあるのだから・・・。
いや、これはぼくの考えが古くさいのだろう。アートというのは、つきつめれば自分ひとりで受け入れるものであり、作家と見る者との一対一の仕儀だという思いをどうしても拭いきることができないのだ。
今は、社会に向かって声高にはたらきかける類のアートが元気なようだ。
とはいえ、一片の中に宇宙を凝縮した作品を前に、静かに、それでいて激しく、震える感覚を、まちの日常の中に見出だせないものかと夢想するのだが。
アートを、拡散するものと凝縮するものとに分類することが、適当かどうかよくわからないけれど、もしそのような分け方を試みるなら、ジョゼフ・コーネルの作品は後者ということになるだろう。
美術家の手製の箱やコラージュは、まるでそれぞれの中に惑星系をひとつずつ封じ込めたように、今も静かに自転を続けていると見える。
では、凝縮した宇宙は永遠に凝縮したままなのか。何かの契機に拡散に転じることはあるのか。
宇宙論の知見を聞きかじろうとしたけれど、手に負えず、放り出してしまった。
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川村記念美術館での高橋睦郎氏の朗読会をてっきり明日だと思い込んでいた。取るものもとりあえず飛び出す。なんとか間に合うだろう。
高橋睦郎氏の朗読会終了。氏の朗読を初めて聞いた。孤独と懐かしさをキーワードに、稲垣足穂と結んで。
質問者の誰かが言った「次元」という言葉が気になる。足穂の四次元と三次元。思えばコーネルも箱という三次元とコラージュという二次元を往還した人。
人形(ひとがた)は老いず、ただ死ぬのみ。
以前、弔電を出す必要があって勝手が分からず、宛名を亡くなった人本人にしてよいか迷ったことがある(普通は喪主宛だろう)。
コーネルのブルトンの写真を使ったコラージュ、あれは死せるブルトン本人に宛てた手紙ではないか。本当の意味で喪失を悼むなら、喪失そのものに宛てるほかないと思うのだが。
ブルトンの顔を囲む円を描こうとすると、死者の左耳の下あたりにコンパスの針を突き立てることになる。まるでそれが致命傷であったかのように?
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『 ジョゼフ・コーネル + 高橋睦郎 「箱宇宙を讃えて」』
会場: 川村記念美術館
スケジュール: 2010年04月10日 ~ 2010年07月19日
住所: 〒285-8505 千葉県佐倉市坂戸631
電話: 043-498-2672
関連プログラム
高橋睦郎 詩の朗読会「コーネルの箱宇宙を讃える」
4/17(土)14:00-15:00
