蛍石

急に梅雨が本気を出したみたいな雨で、外に出る切っ先が鈍る。家でだらだらしていたらもう午後。基本私は毎朝髭を剃ってから家を出るけど、この時間になると、今髭を剃って翌朝また剃るのがもったいない気がして迷う。

ところでコロナ以降、マスクをするようになった利点のひとつは、外出する時に無精髭が伸びていても気にしなくなったことですね。ということで、雨脚が多少弱まったところで、思い切って出掛けることにします。

恵比寿のLIBRAIRIE6に、10周年記念展示の第2部「日本のアーティストたち」を見に。

一枚だけ写真を撮らせてもらった。内林武史さんという方の作品。標本瓶の中に封じられた蛍石(という鉱物があるそうだ)の結晶が、瓶の下からの光を受けて、呼吸をするように青白く明滅する。写真はその瓶ごと専用の箱に収められたもの。側面のレンズ越しに覗く光は思いの外様相を変える。氏は他にも何点か繊細な光を扱った作品を出展していて、ギャラリーオーナーの佐々木さんが部屋の照明を落としてくれた。

かけがえの有無

外に出ると、前日の梅雨入りが拍子抜けするようないい天気。これなら洗濯物を干してくればよかったな。

朝飯はコンビニ、昼はきのこのクリームソースのペンネ。夕方は錦糸町から総武線快速に乗って東京駅に。JR線に乗るのも3月以来かも。

東京ステーションギャラリーで神田日勝展を見る。これが緊急事態解除後初めての美術展鑑賞となった。事前にコンビニで入場時間帯を指定して前売券を買う方式。そのせいか、入場後しばらくは展示室をひとり占めするように作品を見ることができた。最初は面倒かなと思っていたけど、これはこれで悪くないかな。

神田日勝は、北海道の十勝地方で家業の農耕に従事しながら絵画制作に打ち込み、1970年に32歳で早世した人。厳しい北の土地や共に暮らす人や牛馬のかけがえのなさと、ペインティングナイフで刻むように塗り重ねられた絵具の物質性が響いて、強い現実感に打たれる。1950年代後半から60年代にわたる画業は、端的に言えば日本の高度成長の時期と重なる。また、美術史上も新しいスタイルが次々に現れた時期。後期の画風の変化からは、自給自足の農耕生活に訪れつつある商品経済の気配の中で、同時代の美術に意識を向けながら自分のスタイルを模索する画家の姿が垣間見えるようだった。直接描かれない東京という不在の項目が現れてくるようにも感じた。

夜になって梅雨入りを思い出したように雨が降り出した。10,088歩。

十三年目

東京も梅雨入り。昼飯を食べに外に出た時はまだ日射しが強かったのに、午後のうちに雨が降り出した。オリナスの前を歩いたら、ビル風のせいもあるのか、突風と言っていいくらいの、傘を飛ばされそうな風。おちょこになったビニール傘を持った人を何人か見た。

昼飯は安定の鯖の塩焼き

雨模様で風が強いのは散歩には適当でない天気、というわけで、今日は楽天地スパにイン。サウナ→水風呂→小休憩を2回の後、半ば放心状態で休憩室に向かっていると、足つぼマッサージのブースのおねえさんから声をかけられた。私ははっきりとは覚えていなかったが、前回来館した際に施術してもらった人らしい。お願いされると弱いので(気が小さいとも言う)今回も施術してもらうことにした。

おねえさんの問わず語りの話を聞くでもなく聞いていると、楽天地でマッサージの仕事をするようになって13年になるとか。道理でさっきから何人も通りすがりの客と親しげに挨拶しているわけだ。他のスタッフもここが長い人が多いという。なるほど、背中流しのおねえさん方など、長年の風雪を経て、もはや風格を感じるような人たち揃いだ。そういう考え方の会社なのだろうし、サービス業というのはそういうものなのかも知れない。

足つぼのスタッフ同士で話す時の言葉は、多分中国語だろう。サウナにはいろんな物語があるなあと思う。9,605歩。

足つぼマッサージのブース。いかがわしい施設ではない
結局楽天地スパで晩飯を済ませた

あじさいの季節

なぜか朝から眠くて仕方ない。昼間飯を食いに外に出たら、初夏を越えて真夏のような空と暑さ。というわけでもないけど、きょうは今シーズン初の冷やしたぬきそば、そして親子丼のセット。夕方になると風が出て過ごしやすくなっていたので、錦糸町経由、ぶらぶらと歩きながら帰宅。夜は昨日定休日だった某銭湯に行く。背中いっぱいの彫り物の人と、三人兄弟?の子供たちといっしょに水風呂に入る。隅田川をわたる夜風が気持ちいい。11,740歩。

あじさいの美しい季節になった。散歩の道すがら、色や形のさまざまなあじさいを目にするのは楽しい。公園や街路樹の植え込み、民家の庭先など、町のあちこちにあじさいを見かける。こんなにたくさん植えられていたのかと驚く。あじさいが美しいのは、初夏から梅雨時までの2ヶ月程か。それを過ぎてしまえば、次の季節まで顧みられないのも悲しい。

下町であじさいをよく見かけるのは、江戸時代の園芸ブームの名残りなのかなと思うと、必ずしもそうではないようで、当時あじさいはそれほど人気ではなかったそうだ。少々意外に思う。

三日に一回

朝はドトール。昼はピザ。ラクレットのマルゲリータ。

錦糸町で雑談。帰宅して有り物で晩飯。Wordpressをいじったりしていたら出遅れてしまった。目当ての某銭湯に行ったら閉まっている。ええっ定休日でもないでしょう。そうか今は夜10時閉店なのか。慌てて近隣の別の銭湯に行くとまだ営業時間中で助かった。それでも11時閉店という。6月から諸々の状況がコロナ以前に復しつつあるとはいえ、まだ短縮営業を続けている銭湯も多いようだ。8,768歩。

コロナ以降、どこからの通達だったか忘れたが、買い物は三日に一回が望ましいという話があった。さあ、実際のところ、多くの家庭ではどのくらいのペースで買い物に行っているのか。当方の場合、ほぼ毎日近くのスーパーに行っている。むしろコロナ以降のほうが頻度が増したと思う。ひとつは、以前よりも自宅で食事をする機会が多くなったのと、もうひとつは、電車に乗らなくなったので、駅近くのコンビニに寄る機会が少なくなったから。

思えば、富山の家でも、基本毎日買い物に行っていた。それは、やはり新鮮な魚介類は毎日購入する必要があるからだろうと思う。うちでは毎晩必ず刺身が一品出されたし、それ以外でも干物だの煮魚だの、魚介類が食卓に上らないことはなかった。もちろん高級魚などではない、ごく庶民的な値段のものだが、その日の朝に近くの漁港に上がった地物の魚をごく普通に食べていた。今思うと有難いことだが、子供の頃の私は、本当は魚より肉のほうがいいのに、と思わないでもなかった。が、当時、肉を口にする機会は今よりもぐっと少なかった。経済的にそう豊かでなかったことは確かだろうが、かつて富山が真宗王国で、特に年長の世代は肉食を避けたということもあるのではないか。我が家では、ある時期まで祖母が中心に食卓の準備をしていたけれど、祖母の世代が肉を食べつけていたとは思えない。

とはいえ、ここ30年程の間に、すっかり食の風景は変わってしまった。当方が子供の頃は、肉を口にする機会も少なければ、外食をするのも年に数える程だった。今では普通に焼肉の外食チェーン店が繁盛する。しかし、例えば先年の食中毒事件などは、急速な食の変化に伴って生じた齟齬の現れのようにも思う。

一日二回

朝はコンビニ。昼は鯵開き焼き定食にする。帰りは某銭湯に寄り道。ここは区内では名の通ったところだが、私にはどうしてあんなに世評が高いのか分からない。今回もそう思った。帰宅して、しばらくしてから夜の散歩に出る。川を越えて歩き、汗になってきたところで某々銭湯に入る。お湯につかると、何もかもがちょうどいい。ここはいいなあとしみじみ思う。一日に二回銭湯に入ったのは初めてかも知れない(下諏訪の温泉巡りなどは除く)。22,877歩。

千住大橋の橋詰テラスに、日本中の河川と橋梁を相撲の番付の体裁で書き並べた「河番付」「橋番付」が掲示されている。どれも江戸時代の作という。

相撲同様、やはり郷土力士というのは気になるもので、まず河番付のほうで越中出身力士(河川)を見ていくと、東方前頭に神通川の名前が見える。同じく東方の上から五段目に見えるのは、変体仮名を使って分かりにくいが、黒部川だろう。四段目の中田川というのは、庄川のことらしい。西方の二段目に見える勝川というのはちょっと調べただけでは分からなかった。番付が結構上のほうなので、しかるべき格式の川なのだろうが。

橋番付に移って、東方小結の「越中舩橋」は、神通川の舟橋のことだろう(源のますのすしの蓋に描いてあるやつだ)。前頭二段目の「親部橋」というのは、音からすると今の小矢部橋だろうか。奇橋として知られていたという黒部川に架かる愛本刎橋の名前は見えないようだ。橋番付のほうは江戸と大坂の橋が多い。人や物資の往来の需要があっての橋だから、都市部に橋が多く架かるのは、当然のことだとは思うけれど。

河番付の行司役は、「隅田川」「宮戸川」「両國川」とある。江戸博のサイトを見ると、「江戸時代に隅田川とよんだのは大体汐入・鐘淵下流、少なくとも千住大橋下流からのようで、浅草観音の付近を宮戸川とか浅草川とよび、両国付近では大川とか両国川とよんだ」という記述を引用している。現代のわれわれの感覚では、上流から河口までのひと続きで一本の川として認識しているけれど、当時は流域部によって別々の川という認識だったのだろうか。

橋番付の行司役は「江戸両國橋」「江戸大川橋」と「千住大橋」。なるほど、千住は江戸の外だから、頭に江戸は付かないんだな。この大川橋というのは今の吾妻橋のようだ。また、かつては両国橋のことを大橋と言ったらしい。

千住大橋あたり

寝坊したり洗濯したりしていたら、外に出るのが11時になってしまった。隅田川沿いに白髭橋から汐入公園、千住大橋を過ぎたあたりまで歩く。川岸にデッキが整備されているのはこのあたりまで。もう少し上流まで足を延ばしたいと思っていたが、まあ今日のところは諦めて、京成線の線路に沿って引き返す。そうか、川岸から見えていた広大な再開発地域は、もと日本皮革の工場があったところなのだな。千住大橋駅はタワマン住民用におめかししているようだ。河原町稲荷神社をひやかして、墨堤通りから隅田川に戻る。銭湯に寄って帰ったらさすがに疲れてしまった。これでもう少し日差しが強くなると、外を歩くのは辛くなるかも。27,009歩。

この天水槽は嘉永3年の作だそうだ
狛犬がマスクをしていた

対物の美

午前、散歩用にと注文していた無印のストレッチパンツが届いた。いい感じ。これから天気も悪くなるようだし、早速散歩に出る。カメラを持って出たがSDカードを入れるのを忘れた。戻ってヒガムコでコーヒーとハムサンドイッチを初めて。ハムは地蔵坂の店の特製というからサラミかと勘違いしていた。案外天気が持っているので銭湯に行く。帰り道でポツポツ雨が降り出した。夜はWordpressのカスタマイズ(このサイトね)。10,985歩。

自粛期間中に目にしたネット記事で、養老孟司さんが、世界は「対人の世界」と「対物の世界」に分かれていて、ユーチューバーも「対人の世界」の住人だと言っていたのが印象に残った。つまりリアルかバーチャルかという区分ではないんだね。SNSなどインターネットの世界も「対人の世界」ということ。

これを芸術に引き付けて考えてみたらどうだろうか。「アート」はそもそも人の手によるもの。それを作り、愛でることは、いわば「対人の美」の世界の出来事だろう。一方で「対物の美」というものだってあるはずだ。

とはいえ、養老さんが「対物の世界」に生きる人として挙げている農家や漁師だって、他の人間と没交渉で生きていくことはできないはずだ。今の世界というのは、「対人の世界」に覆いつくされてしまったということなのか。

街角の花

案外天気よさそうなので今朝も洗濯。朝飯はカレーの残り。これがなかなか減らない。外出。昼飯はまた鯖塩焼きにしてしまう。目玉焼きの小皿が嬉しい。錦糸町の某所に久しぶりに出向いて雑談。歩いて帰宅。晩飯は有り物で済ませる。ちょっと疲れた。9,261歩。

ちょいと前の話だが、月曜日の毎日の朝刊に、生島ヒロシ氏が先日亡くなった小島一慶さんへの追悼文を寄せていて、その中で一慶さんのアナウンスの技術を「例えば、街角で花が咲いているのを見つけたら、それをネタに30分くらいは話を盛り上げられる力量がありました」と述懐していた。また、晩年の一慶さんは句作に凝っていたらしい(そういえば先日の久米宏さんのラジオでもそんな話が出ていた)。

生前の一慶さんは醜聞もあった人のようだけど、この街角の花の話と句作の話は通じる気がする。街角の花のようにありふれたものが言葉に表されることは少ない。でも、そこに視点を当てて自分の言葉にする。それが、若いころは30分の饒舌なトークだったのが、五七五の俳句まで研ぎ澄まされていった。

今回の自粛期間中、在宅に倦むと隅田川の川岸を歩いた。すると、思いのほか多くの草花や野鳥に出くわす。そして、自分がいかに花や鳥の名前を知らないかということに気づかされる。要するに、これまで彼らを言葉にしようとしたことがなかったのだ。あんなに近くに住んでいるのに。

二ヵ月ぶり

寝床でラジオの天気予報を聞いていて、週末天気が悪くなりそうというので、慌てて洗濯機を回す。外出して朝飯はコンビニのサンドイッチ。昼飯は魚のフライの弁当、というと安直そうだが、イタリアンの店がこのご時世で始めたもので、材料もよく選んでいるのだろうし、何より揚げたてで旨い。値段は安くはない。夜は約二ヵ月ぶりのサウナ(別項参照)。晩飯はサウナのレストランで味噌ラーメンと餃子。たまたまラーメンと餃子の記事をそれぞれ目にしてにわかに食いたくなった。思えば外でラーメンを食べるのも二ヵ月ぶり。

久しぶりに足つぼマッサージをしてもらった。施術の強さを聞かれて、強めに、と答えてしまったが、まったく痛くなく、そのうちウトウトと居眠りしてしまう。手加減されたわけでもないようで、足の裏が柔らかいと驚かれてしまった。普段はかなり痛いこともあるのだが。してみると、このところ努めて歩くようにしている効果か。