フューチャー・シネマ補遺

ICCの「FUTURE CINEMA」展を改めて見てきたので、もう少し書く。
まず思ったのは、フューチャー・シネマ=インタラクティヴ・シネマなのだろうか?ということ。
出展作品のかなりの数をインタラクティヴな作品が占めていたわけだけど、デジタル技術が観客とのインタラクティヴィティの達成を容易にしているとはいえ、必ずしもコンピュータがなければインタラクティヴ・シネマがありえないというわけでもない。
ICC4階のロビーにあまり目立たなく上映されていた作品「チェコスロバキアのインタラクティヴ映画のパイオニア」で見ることができるように、コンピュータの応用以前からさまざまな形で映像と見るものとのインタラクティヴィティは試みられてきた。が、現代に至る映画の作法が整備されていくにつれて、映画というのはあくまで観客が直線的に受け入れるもの、ということになってしまった。
コンピュータはその観念の桎梏から開放してくれるツールかもしれないが、必ずしもコンピュータが唯一のツールではないはずだ。
おそらく映画の歴史をさかのぼれは、そのヒントはいくつも見つけることができるのだろう。
例えば、いまふと思ったのだけど、インタラクティヴ映画に、昔の無声映画のような弁士が再登場して、映像のナヴィゲーターとして観客とコミュニケートしながら進行していくというのもありなのではないか。もちろん、それが生身の人間である必要もないのかもしれないが。
逆にいえば、インタラクティヴ・シネマとされているものの多くが、実は映像アーカイブで、面白さのポイントは個々の映像に至るまでの演出と、データベースにアクセスするためのデバイスの問題なのではないか、という感もある。
デバイスというのは、マウスだったりゲームパッドだったりタッチパネルだったりするわけだが−−−そういう意味では、ヴァーチャル・リアリティというものも、結局はインタラクティヴ・シネマにアクセスするための演出とデバイスの問題に言い換えられるのではないかと思えるが−−−今後、果たしてどのようなデバイスが、未来のインタラクティヴ・シネマの標準デバイスになっていくのだろう?
映画が登場したとき、観客は演劇という従来のメディアの様式を準用して鑑賞することになったわけだけれど、今のところ、デジタル化されたインタラクティヴ・シネマにおいても、PCやゲーム機、ATMのような既存のデジタル機器の作法にのっとって映像にアクセスしている。
が、インタラクティヴ・シネマが決してコンピュータの産物でないのなら、映像の歴史をさらにさかのぼることで見えてくるヒントもあるはずだろうと思う。
上に述べたことにも関係するが、実はぼくが惹かれた作品のいくつかは、必ずしも観る者とのインタラクティヴィティーを意図しないものだった。
たとえば、ジェニファー+ケヴィン・マッコイの「戦慄の追跡」のように、一定のアルゴリズムに基づいて映像を繰り返したり、逆回転する、そして無限に映像が続いていく−−−これこそコンピュータなしには実現しないといえるが−−−その映像がまた、いつか見た悪夢のように、いつ終わるとも知れない追跡劇なのだ。
また、マーチー・ヴィジネフスキーの「瞬間の場」では、コンピュータによってシミュレートされたタカとネズミが、コンピュータ・ネットワークの上に実現された場を生きている。タカとネズミの世界に交渉が生じるとき−−−すなわちネズミがタカに捕食される瞬間−−−ぼくは思わず、あっ、と声を上げてしまった。
が、よく考えれば、ぼくはゲームセンターで仲間がプレイしている、例えばハウス・オブ・ザ・デッドを横で見ていて−−−ぼく自身はまずゲームはしないが−−−、やっぱり、あっ、と声を上げてしまう。
話がそれるが、自分以外の者がプレイしているゲームの画面を見ている、という状況は、自分がプレイしながら画面を見ているというのとは、どこか別種の映像体験のように思えるのだが、どうだろう?
もうひとつ、シェリー・エシュカーとポール・カイザーの「歩行者」では、やはりコンピュータでシミュレートされた歩行者の映像がギャラリーの床に映し出される。
自分が今まさに立っている底面と、映し出された映像、そしてそこを歩き回り、立ち止まり、倒れこむ人影。あるいは映像の街角が、静止しているぼくの感覚に逆らってスライドしていく。この感覚は、自分が乗った電車が停車しているときに、向かいの電車が発車したときの居心地の悪さに近い。
なんと言うのだろう、自分の安住している場に、不意に映像が闖入してくるような、そしてその映像が、ぼく自身の過去の記憶や肉体的な感覚をかき乱すことによって、ぼくの既存の現実感と、映像のリアリティーが融合して、その二つのどれとも違う、別の現実感が生成すると言おうか・・・。
そのような体験が、ぼくの予期せぬ場、演出、デバイスでなされるということに、(陳腐な表現だが)新鮮な驚きがあるということなのだろう。
先に述べたICCでのシンポジウムで、パネラーの加藤幹郎氏は、藤幡正樹と川嶋岳史の作品「フィールド・ワーク@アルザス」を印象に残った作品のひとつに挙げ、その理由としてスクリーンが観客に入り込んでくる、という点を述べていた。
実は、それは今回の藤幡作品というよりは、ICCに設置されているCAVEシステムによって実現されているわけだが、いずれにせよ、これまでの映画では、観客とスクリーンとの距離はスタティックだ。それが、スクリーンのほうが観客の体内に飛び込んでくる、という体験は、デジタル技術なくしてはありえないことだろう。
逆に、観客がスクリーンに向かって突入していく、という映画があってもいいか。あるいは過去にはあったのだろうか。ふと、村上三郎の紙破りのパフォーマンスを思い出してしまった。

意識と感覚のプロジェクション

初台のICCで「意識と感覚のプロジェクション−映像表現の諸相」と題されたシンポジウムを聴いてきた。
もっとも、このシンポジウムの本体?たる「FUTURE CINEMA」展は、シンポジウム開始前にその一部をざっと見たのみで、会期はもう1週間ほどしかないが、再度訪れなければなるまい。
ICCの5階展示室を入ったすぐ脇の作品、カスパー・シュトラッケの魅惑的な作品「z2[zuzeの帯]」。これはいくつもの穴をうがたれた映画フィルムが投影され、観客が手回しでフィルムを動かすことができるようになっているものだ。1930年代にドイツのツーゼという技術者が使い古しのフィルムを記録メディアとしたコンピュータを製作していたという。本当だろうか?一般的なコンピュータ史では、ENIACが世界初のコンピュータとされている。もちろん、チャールズ・バベッジの階差機関などを考慮に入れなければ、だが。ENIACの完成は第二次大戦が終わるか終わらないかの頃だったと記憶しているが、それより10年近い前に外部記憶装置をもったコンピュータが開発されていたのだろうか?
ともあれ、パンチカードのように無数の穴が開いたフィルム、そのフィルムにプリントされたイメージは人間の目がクローズアップされたものだ。フィルムの一方の切れ端が展示室の床に丸まっているのを見たぼくは、思わずフィルムを手にとって間近でそれを見たいと思った。が、すぐに係員の女性に作品に手を触れないようにと止められてしまった。
しかし、そのフィルム自体が美しい造形だと思った。例えば、キャンバスに穴をあけ、ナイフで切り刻んだルチオ・フォンタナの作品のように。
あるいは日本の実験工房の作家たちは、1950年代に映画フィルムに直接傷をつけた映像作品を製作している。それは瀧口修造によってキネカリグラフィと名づけられた。
今回のシュトラッケの作品も、実際に映写機にかけられたら、どのように見えたことだろう?
余談が長くなった。今回のシンポジウムのパネラーは、文化人類学者の今福龍太氏、映画学が専門の加藤幹郎氏、そして本展の出展作家の一人でもある藤幡正樹氏の三人。
加藤氏は出展作品のひとつであるジム・キャンベルの「照射される平均値#1」を取り上げ、この作品はヒッチコックの映画「サイコ」の全コマをスキャンし、一枚の画像に重ねあわせたものだが、作品の意義を認めつつも、原作でヒッチコックが意図的に消し去った観客の視線についての考察が欠けていることを指摘する。そしてこの点は、本作とは逆に原作の「サイコ」を24時間に引き伸ばして上映したダグラス・ゴードンの作品「24時間サイコ」にも共通する問題だとする。
(実はぼくは「サイコ」を未見なのだが)つまり、現代のハリウッド映画に通ずる映画文法では、観客が映画の登場人物の誰かに感情移入することによって、観客の視線がスクリーンに映し出される映像と同調する。しかし、「サイコ」では、観客が一度感情移入した主人公のマリオンが、映画開始後30分(だったかな)で殺されてしまい、観客は突然感情移入の対象を失ってしまう。加藤氏はこれを観客の視線がブラックホールに消失するという言い方をしている。
また、同様に加藤氏は、近年のハリウッド映画で多用されるようになったCGI(Computer Generated Image)では、撮影者の視線が欠如しているという点も指摘している。
つまり、ハリウッド的な古典的な映画においては、観客の視線と撮影者の視線というものをバーチャルに設けることで映画文法が成立したわけだが、これは映画が発明された当初は、必ずしもそうではなかった。観る側においても、撮る側においても、さまざまな試みがなされていたわけで、加藤氏がゴダールのことを「リュミエール兄弟より前に映画を発明したかった人」と述べたのは、そういうことなのだろう。
一方、今回の「FUTURE CINEMA」展に出展されているようなコンピュータを使用した映像表現では、あたかも映画が発明されたばかりの時期のような試みがなされており、それを氏は「へその緒で繋がった」という表現をしている。氏があえてジム・キャンベルの作品を取り上げたのは、手法のポテンシャルに対して食い足りなさを感じたということかもしれない。
一方、今福氏は、氏自身の映像プロジェクト、例えば文化人類学者のクロード・レヴィ−ストロースが1930年代にサンパウロで撮影した写真を、今福氏が現代のサンパウロの同じ場所で撮影した写真と併置する作品を紹介した。
残念ながら加藤氏と今福氏の議論があまりかみ合っていないように感じられたのだが、それは今福氏自らが撮影者の視線に大きく傾いているということと無関係ではないように思える。
氏が写真作品の展示手法が回廊的であること、つまり美術館のように回廊の周囲に小部屋の展示室が位置し、写真作品が展示されていることを語るが、まさに今福氏自身が、コロニアル都市の回廊の中を歩きながら写真を撮影し、あるいは写真に切り取られた視線を追体験しているようにも見える。
しかし加藤氏の議論を聞いた後では、撮影者の視線とカメラのレンズの方向の差異がどうしても気になってしまう。つまり、写真作品を見るとき、ぼくたちはフォトグラファーの視線を追体験しているような感覚に陥るわけだが、そのバーチャリティの問題は、写真と同様に、その文法を援用した映画にも付きまとうことだろうからだ。
これは、写真(あるいは映画)そのものと、その物語性の問題と言い換えることができるかも知れない。
鼎談の最後で、加藤氏が引用した映画批評家山田宏一氏の言葉、無人島に一本だけフィルムを持っていくとしたらどの映画か、という質問に、氏は、どの映画というよりも、誰か一緒に観る人が欲しい、と答えたそうだ。
つまり、複数者で観るということが映画の要件になっているようなのだ。視線はあくまで一対一のようでありながら。
それに対して、今回の「FUTURE CINEMA」展では規模が大きすぎて巡回できなかったというジェフリー・ショーのEVE(Extended Virtual Environment)という作品では、ドーム状のスクリーンの中に観客が一人だけ入り、観客の視線の方向に映像が映し出される。このあたりにも、未来の映画の変容の可能性があるのだろう。

生きる喜び

品川の原美術館で「生きる喜び−アフリカの二人展」という写真展を見てきた。
たまたま品川で時間があって、思い立って少し足を伸ばすことにしたので、展示内容や作家について前知識はなかった。
取り上げられている作家はいずれもアフリカの写真家で、二人とも白黒の写真というところは共通しているけれど、一見して作風はまったく異なる。
マリック・シディベの作品は若者の肖像写真や、ダンスや水浴びなどに興ずる様子の一場面を切り取ったもの。
これが印象的だった。
黒人の若い男女の、伸びやかで均整が取れた肢体の美しさ。
そして男女のカップルも友人同士も、みんな屈託のない表情と身のこなしを見せる。
最初、ぼくは彼らの写真を全然撮影年代を気にしないで見ていたのだが、みんな白黒写真なのに、どういうわけだか、どの写真も最近撮られたものなのだろうと思い込んでしまっていた。
が、急に気になってキャプションの撮影年を見ると、多くの作品が1960年代から70年代に撮られている。
彼らは当時どのくらいのクラスに位置していたのだろう。また、数十年経った今でも若者はあんなふうなのかな。そんなことも気になる。
彼らの写真を見ていて、自分のたるんだ体と屈託だらけの精神が、だんだん後ろめたくなってきた。
ぼくだけじゃない、今の日本に暮らしている少なくともぼくと同世代なら、みんな同じようなことだろうけど。
60年代のアフリカと現代の日本という物理的な距離以上に、彼らとぼくらの距離が、悲しいくらい隔たってしまっていることに気づく。
彼らはきっと、自分の肉体や身のこなしの美しさには、全然無自覚、無頓着なんだろう。
それでいて、自分の肉体の機能を屈託なく発揮しているように見える。
つまりそれは、踊ったり、泳いだり、カメラの前でポーズをとったり、あるいは男の子と女の子がくっついて、妊娠して子供を作ってとか、そういうの全部。
かたや、何かと頓着しすぎのわれわれは、スポーツジムに行って体を絞って、結果的に同じような体になったとしても、それは一回転倒して元に戻ったというか、もう肉体が元の肉体じゃなくて、洋服の一部みたいになっちゃってるわけでしょう。
例えば、今回の作品の中にも「アフリカのヘラクレス」と題された写真で、やたらムキムキに鍛えた男が写ってるのがあるけれども、そういうわざとらしいのは、どうも醜く見えてしまう。
でも、ぼくらは、一回意識してしまった以上、もう写真の中の彼らみたいにはなれないんだろうなあと思う。
むしろ、三島由紀夫がボディービルで体を鍛えていたというような話のほうにシンパシーを感じてしまう。
写真家の目には、彼らの肉体や身のこなしは、どのように見えていたのかな。
さて、もうひとりの出展作家J.D’オハイ・オジェイケレの作品は、人体をとらえた白黒写真という点では同じだけど、体といっても、もっぱら女性の後頭部だけを被写体にしている。
どういうことかというと、ナイジェリアの女性のさまざまな髪形を撮影した写真なのだ。
しかし、髪型という言葉から、これらの作品をヘアカタログに掲載されている写真のように思ってはいけない。
もとは髪の毛でできていたんだろうとおぼしき物体が、頭から生えている。
彼女達の髪は、それほど、ちょっと想像がつかないくらい奇妙な形に結われ、ねじられ、まとめ上げられている。これは、黒人特有の髪質による部分もあるのかもしれないけれど、むしろそれを十分に活かして結い上げられているともいえる。
写真家の言葉を引用する。
「ヘアアーティストが髪を結い上げるジェスチャーは、まるで彫刻家が彫刻をつくるように魅力的だ。ヘアースタイルはアート。アートは人生」
これは、写真家が被写体をアートだと認識している言葉なのかな。それとも、髪を結った人にもアーティストとしての自覚があるのかな。
あと、さきほどのマリック・シディベの写真の中では、若者たちは自分の体の美しさということにはあまり頓着していないように見えたけども、こちらの作品では、被写体の女性たちは過剰なくらい自分の髪を意識していることが面白い。

六本木クロッシング

森美術館で開催されている「クサマトリックス」展と「六本木クロッシング」展を見てきた。
昨年、六本木森タワーの52、53階に森美術館がオープンしてから、つい先月まで開館記念の「ハピネス」展をやっていたけど、結局行きそびれてしまって、美術館自体に行くのも初めて。というか、六本木ヒルズに行ったのも初めてだったけど。
美術館に行くには、森タワーの脇にある入口から入るのだけど、この入口は美術館と同じフロアにある展望台「東京シティビュー」と共用になっていて、美術館に行く人も行かない人もみんな一緒にエレベーターで上がる。
感心したのは美術館の入館料の設定で、美術館のチケットは二つの展示共通で、しかも展望台の入館料込みで1500円、ところが展望台に行くだけでも1500円。
これなら、普段は美術に関心のない人でも、どうせ同じお金を払うんだったら、美術館のチケットのほうを買っとこうと思う。
実際、会場には美術館なんて初めてみたいな顔をしたお上りさん風の人も多かった。
特に草間展は観客が体感できる作品が多かったから、テーマパークみたいな感じで観客の歓声が聞こえる。
鏡張りの暗室の天井からたくさんのLED(あるいは光ファイバーかな?)をぶら下げて明滅させている作品は、横浜トリエンナーレで見たミラーボールの作品を思い出した。
そんな感じで草間展はさらっと流したのだが(正直言うと、もう少し見ごたえが欲しかったか)、もうひとつの「六本木クロッシング」のほうは、いやというくらい堪能した。
何しろ出展作家の数が57組、若手から大ベテランまで、それぞれが一点ずつ作品を展示している。それも映像作品や大掛かりなインスタレーションも多いから、ちゃんと見ていくとものすごく時間もかかるし足も疲れる。
せっかく滅多に来ない六本木くんだりまで出てきたんだから(つまりぼくもお上りさんの一人なわけだが)、ひとつひとつきちんと作品を見ていこうと思っていたのだけど、うっかり見過ごしたり、流してしまったりした作品もあったんじゃないかな。
でもこれは、絶対もう一回は見に来る価値があると思った。会期もまだ長いし。
作品の種類やコンセプトとかはみんなそれぞれで、キュレーターも複数いるらしいが、とにかくこれだけの数の作家を集めて、これだけの規模の展示を行うという、そのボリュームにまず圧倒された。
しかもそれを、いち民間企業の所有する美術館が開催するとは・・・。
そんなことを同行者に言ったら、いや、民間だからできるんだ、公立の美術館では絶対にできないだろう、と言う。なるほどそうかも知れない。
あと、この美術館のエライのは夜遅くまで開館していることで、週末など夜の12時まで営業している。確かにこれも公立の美術館にはできないだろう。
日がすっかり暮れる頃になっても、お上りさんも美術ファンも入り乱れて、館内にはお客さんが途切れない。
展示に疲れて窓から夜空を見上げると、赤黄色い満月が浮かんでいて、そのうちに、なんだか月まで作品の一部みたいに見えてくる。借景だね。