もう30分も早く家を出られたら、途中でアイスコーヒーでも飲めたのに、そこまでゆっくりする時間はなさそう。
京成曳舟から品川乗り換え、北品川へ。
暑い中歩いていると頭がぼんやりしてくる。足許が覚束ないせいか、後ろから来た車にクラクションを鳴らされた。
原美術館に。 開館時刻の11時に予約していたら、中途半端に早く着いてしまって、外でしばらく待たされた。他にもそんな客がちらほら。
アート・スコープ展。ドイツからの招聘作家の作品が環境音楽(早世した吉村弘氏によるものという)をフィーチャーしていることに全体の印象が引きずられているのかも知れないけれど、出展作家の三者とも音の要素が大きくて、インスタレーションというより、アンビエント、という言葉がはまるよう。
日本からの派遣作家の久門剛史氏の作品で、伏せられた木のパネルから蛍光色が漏れ出しているのは、気配という言葉でいわれるような、目に見えないものを可視化すると、こうなるのかなと思った。
サンルームの中に入ると、高周波が鳴っていることがわかる。それが、しばらくそこにいるうちに高周波が隠れて、蝉の声、カラスの声、新幹線の走る音といった外からの音が前面に現れてくる。ハンドアウトに書かれている、高周波が「聴覚的な物差しとして配置」されているというのは、こういうことかと思った。不思議なことに、常に音が鳴っているのに、静寂という感じがする。静寂は無音とは違うのか。
小泉明郎さんの作品では、展示室の入口でiPodが渡されて、観客はヘッドホンで音を聞きながら入室することになる。展示室の中では、言葉で構築された彫刻を見ているとでも言おうか。もしこの状況をヘッドホンを着けていない人が見たら、王様は裸だ、ならぬ、展示室は空っぽだ、と思うことだろう。
帰りは、普段なら北品川に戻るか、品川駅に出るところを、初めて五反田まで歩いてみた。距離的には品川に行くのとそう変わらない。なるべく日陰を選ぶように歩く。
五反田から山手線で恵比寿に。ガーデンプレイスのエクセルシオールで休憩。というか、ほとんど昼寝。シエスタという感じ。
東京都写真美術館に。三つ展示をやっているけれど、こういう体力を消耗する時はあまり欲張らず、エキソニモは次回来訪時に取っておこう。
森山大道展。写真はとにかく、たくさん撮ること、そして長く続けることだなあと思う。
写真家の過去作をキャンバスにシルクスクリーンでプリントした作品が並んでいる。モノクロ写真の粗い粒子がわずかに厚みを持って、印画紙とは違う物質感がある。本当は、印画紙にプリントしたものこそ写真と言いたいところだが、むろんそういう時代でもないし、今回の展示で、銀塩プリントは美術館所蔵の犬の写真一点だけである。
日本の新進作家展。時間の経過や地理的な移動に並走して記録に留めていく写真もあれば、閉じた世界の中で作られたように見えるイメージが、かえって外の世界を浮き立たせる場合もある。ポイントは、やはり続けること、そして技術か。
NADiff Galleryに。森栄喜さんの展示「シボレス|破れたカーディガンの穴から海原を覗く」は、先日のKEN NAKAHASHIでの展示の再現と言っていいだろうか。
私は、今でこそ隅田川で産湯をつかったような顔をして暮らしているが、いわゆる標準語は私の母語ではない。意識して身につけたものだし、正直今でも話しながらアクセントに迷うことがあるくらいなので、その意味では外国語と変わるところはないとも言える。では母語は何かといえば、長年の東京暮らしでずいぶん怪しくはなったが、富山弁の新川方言ということになるだろう。それにしても、話者の育ちが農村地域か港の近くかで言葉はずいぶん違うし、世代による違いも大きい。そうやって言語集団がどんどん細分化されていくと、集団の自他の境界はどこにあるのだろう。
これをシボレスと言っていいかわからないけれど、私は、他の人が話しているのを聞いて、この人は富山人じゃないかなと気づくことがある。仮にその人が自分のことを富山人だと言わずに、標準語を喋っているつもりでいたとしても、言葉を聞けば大体わかる。それくらい、言葉に染み付いた生来のアクセントは拭いがたい。もっとも、私自身が長い間、自分の喋る言葉に意識的だったせいかも知れないが。
地方を舞台にしたドラマで、その土地の方言を、地元出身ではない俳優が話す時の不自然さは、多くの地方人の感じるところだろう。一方で、方言の壁を乗り越えているかに見える人もいる。例えば、小沢昭一さんは映画の中で上方言葉を達者に喋っていたし(それでも、大阪人が聞けば違和感があるのだろうか)、落語の「金明竹」は、噺家の繰り出す江戸言葉と上方言葉の両方がそれらしく聞こえるからこその可笑しさだろう。ということは、古来シボレスの関門をすり抜けおおせた人も、少なからずいたのではないか。そんなことをつらつら考えているうちに所定の15分は過ぎた。
曳舟に戻って、ドトールで休憩しつつ、小泉明郎さんのもう一点の作品、各自音声ファイルをダウンロードして街中で聞くよう指示されているものを試してみる。まあ、もっと目の前で雑踏が行き過ぎるような状況のほうが作家の意図には合っていたんだろう。
帰宅後は特に再外出もなし。15,959歩。