主よ、あわれみ給え

世田谷美術館でやっている瀧口修造展の企画で、高橋悠治のミニ・ライブがあるというので出掛けてきた。
演目は武満徹の「遮られない休息」、「閉じた眼」、そしてバッハの「マタイ受難曲」から「主よ、あわれみ給え」の3曲。
会場は美術館の展示室、瀧口のデカルコマニー連作「私の心臓は時を刻む」が展示してある部屋。

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南海ホークスがあったころ

しかしゆうべはやたら蒸し暑かったね。
窓を少し開けて寝ていたのだが、どうにも寝苦しくて朝の4時過ぎに目が覚めてしまった。
しょうがないので今季初の冷房を入れましたよ。朝っぱらから。
いったん目が覚めるとなかなか熟睡には戻れなくて、5時からJ-WAVEをつけて、聞くでも聞かないでもなくウトウトしていた。
おかげで今日はいくぶん寝が足りないまま一日をすごしている。
さて、残念ながらホークスの連勝も11で途切れてしまった。
まあ、ずっと勝ってるわけにもいかないから、仕方ないけどね。
新聞などを見ると、福岡ダイエーホークスとしては、2000年の9月に9連勝したことがあるそうだ(って、ぼくもそのころにはホークスを見ていたはずなのだが、いい加減なものであんまり覚えていない)。
それ以上の連勝というと、南海時代の1965年に17連勝して以来だという。
ここで少し気になるのが、新聞の書き方が、例えば「39年振りの10連勝」か、それとも「初の10連勝」となっているか。福岡ダイエー球団としては初めてでも、ホークスというチームにとっては39年振りということだからね。
どうも最近、例の近鉄とオリックスの合併話もあって、うがった見方をしてしまうのだが、日刊スポーツ九州のような地元メディアでも「39年振り」という言い方をしているのに、読売新聞やスポーツ報知といった読売系のメディアが「球団初の」という表現をしているのが目立つ気がする。まあ、そんなにすぱっときれいに分かれるわけでもないけども。
それにしても、南海ホークスの17連勝というのもすごいことだ。
そのころのホークスがいかに強かったか。それも、1965年のホークスが必ずしも最強だったわけではなく、59年にジャイアンツを破って日本一になったあたりがピークとすると、そこからいくぶん力が落ち始めている時期に、17連勝なんていうすごい記録を作ってしまうのだから、当時のホークスの強さがわかるというものだ。
1950年代から60年代にかけては、ホークスの黄金時代だったといってよい。
なんて、訳知り顔で書いているが、むろん、受け売りの話である。
ここのところ、前に買ってそのままにしていた「南海ホークスがあったころ」を読み始めている。この本については、日を改めて触れていこう。

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東京焼尽

昨日の朝、目が覚めたらのどの具合がおかしい。
前の晩、窓を開けっ放しにして寝ていたら、夜中に寒くなって目が覚めた。
それがよくなかったのだろうか。
風邪のせいなのか、週末の疲れもあるのか、筋肉が少し痛い。
用があって丸の内に出かけた。
東京駅の丸の内南口から出て、中央郵便局の前を通ると、ちょうど正面に丸ビルを臨む。
同行した人が、この人はつい最近フィリピンの現地法人から3年ぶりに帰ってきたのだけど、新しい丸ビルの威容に驚いていた。
3年前はまだ、新しい丸ビルはできていなかったわけだ。
改めて、街並みの変容の速さを思う。
一方で、東京駅の丸の内側のレンガ造りの駅舎を、創建当時の3階建てに改築する工事の計画も進んでいるらしい。
このところ、寝る前に内田百の「東京焼尽」を少しずつ読んでいる。
これは、昭和19年から終戦直後に至るまでの著者の日記で、当時、百は日本郵船の嘱託をしていたから、しょっちゅう丸の内界隈の話が出てくる。
東京駅の八重洲口付近に爆弾が落ちて大穴が開いて、丸の内側のビルも爆風でガラスが吹き飛んだりしている。
東京駅は天井がすっかり焼け落ちて、雨の日は乗降客が傘をさして改札口を通っている。
60年前の百は、そんな丸の内に毎日のように通っていたわけだ。

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物語が、始まる

三十も過ぎると、自分の年を意識することが多い。
老化とまでは言いたくないが、肉体的にピークを超えたんだな、と感じずにはいられない。
例えば、毎朝ひげを剃る。
が、特に人と会う予定のない週末など、二日ほど続けてひげを剃らないときもある。
あるとき、2、3ミリほど伸びたひげ面の顔を鏡に映してみて、あごひげの中に、ほんのわずかだが、白髪のひげが混ざっているのに気づいた。
そうか、そうなのか・・・、という思いがした。
それ以来、白髪に気がつくたびに、毛抜きで抜く習慣がついてしまった。
ま、ひげの白髪などはまだ些細なことだが、何もしないで放っておけば、毛量は少なくなるし、体重は増える。何とか食い止めなければ、と、無駄なあがきをすることになる。
この前の連休は実家に帰っていた。
実家で犬を一匹飼っていて、普段はぼくの母親が世話をしているのだが、帰省したときくらいは、ぼくも餌をやったり散歩に連れ出すこともある。
ぼんやりと犬と遊んでいて、何気なく顔を見ると、犬のひげの中にも白いのが何本か混じっているのに気がついた。
いや、これは、もともとこういう色だったのだろうか?よく覚えていない。
また、犬のひげとヒトのひげが、解剖学的に同じものなのかどうか、それも知らない。
しかし、この犬も、うちに来て5年半ほどになる。
よく、犬の1年は人間の何年分にあたる、という言い方をするけれど、そうすると、うちの犬も人間の年にすると、40近くになっているのだろうか。
とすれば、ひげに白髪が混じっていても、おかしくもない年なのだ。
近所の親戚のうちに行ったら、庭先でそこの飼い犬がぐったりと寝そべっていた。
もうご老体なのだ。息をするのもやっと、という風で、近くに寄ってもほとんど反応がない。
昔は、そのうちの前を通り過ぎるだけでも、ものすごい勢いで吠え立てられたのに。
うちの犬も、いずれはああいう姿を見せるのだろうか。
そもそも、犬とヒトとではライフスパンが違うのだから、犬を飼っていれば、遅かれ早かれ、その死を見届けなければならない(そりゃあ、ぼくだっていつ死ぬかわかったものではないが、それはさて措く)。
犬よりもずっと命の短い動物だっている。例えば、ねずみをペットで飼っている人がいるけれども、生き死にについてはどう思うものなのだろうか。最初から、すぐに死んでしまうものだと割り切って飼うのだろうか。ぼくは飼ったことがないからよくわからない。
犬の場合は、人と心を通じ合っている(ように見える)から、その老いや死について、余計にセンチメンタルになるのかも知れない。
できれば、犬も人間と同じくらい長生きできればいいのに。
でも逆に、もし、犬の寿命が生まれてから1年ということになったら、いったいぼくらはどんな思いをするだろうか。
そんなことを考えていたら、川上弘美の短編「物語が、始まる」を思い出した。
この主人公の女性は、近所の公園で拾ってきた「雛型」と、ひとときの奇妙な生活を送るわけだが、この小説では、本物の人間ではなくて、あくまで「雛型」だったけれど、もし人間の寿命が人によって全然違っていたら、つまり生まれてから少年になり、大人になり、そして老いていくまでの時間が、ある人は1週間だったり、またある人は10年だったり、あるいは千年だったりしたら、人と人はどんなふうに出会って、恋をしたり、一緒に暮らしたりするのだろう。そんなことを思った。

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確かな光

高野寛さんの新譜が出ているのをすっかり忘れていた。
先月ラジオでかかっているのを偶然聞いたときは、すぐに買いに行かなきゃと思っていたのに。やっぱり、たまにはレコード屋もぶらつかないといけない。
今年1月に発売されたアルバム「確かな光」は、99年の前作「Tide」から5年ぶり10枚目のオリジナル・ソロ・アルバム。
5年ぶりねえ。
その間、ナタリーワイズでの活動もあったし、何組かのアーティストのプロデュースを手がけているということは聞いていたけれど、高野さんはこれまで大体年1枚のペースでソロ・アルバムを発表してきたから、改めて5年ぶりと聞くと、えー、もう5年も経ったのと思う。
我が事ながら、これまで過ごした5年を思うと、あっという間に過ぎてしまった気がするが、逆に、これから先の5年というと、途方もない先のような気がする。
ところが、あと1年、というふうに言われると、なんだか急に心が焦りだす。
まあこれはぼく自身の感慨だけど、ミュージシャンでも、1年ごとのアルバム制作を習慣のようにこなしている状況と、特にノルマや締め切りもなく、自然に曲を書きためているという状況とでは、作品に現れる心象もかなり違ってくるのではないか。
今回のアルバムを聴いて、高野さんからの近況報告というか、ああ高野さんも元気でおだやかな日々を送っているんだなあという私信を読んでいるような気がした。
そして、全体に肩の力が抜けた大人のアルバムという感がある。
というのは、高野さんにはどこか実験精神というか、新しもの好きの感覚があって、音楽からもそういう部分がダイレクトに伝わってくることがあった。例えば、ギターを原形を留めないくらい改造したり、テルミンを演奏したり、ライブでホースをぐるぐる回して変な音を出したり(確かそんなこともあった気がする)。
また、高野さんがラブソングやメッセージソングふうの歌を歌っても、なんだか優等生が不良ぶってるようなところがあって、どこか身の丈に合わないところを背伸びしているように感じることがあった。
もちろん、高野さんのそういう万年少年的な青さが大きな魅力だったりするのだが、今回のアルバムに限っては、気負いのない、等身大の高野さんが伝わってくるように思える。 
高野さんは去年結婚されたという話をどこかで読んだけれど、あるいはそういうことも関係しているのかも。
あと些細なことだけれど、7曲目の「Sunshine Superman」を聞いて、お、高野さんが英語の詞を歌っている、と思った。
これはドノヴァンの曲のカバーということだけど、高野さんが全篇英詞の曲を歌うというのは、これまであまりなかったのではないか?
思いつくところ、ファースト・アルバムに入っている「September Dream」くらいか。
その昔、シングル「目覚めの三月」のカップリングでロジャー・ニコルズの「Drifter」をカバーした時も、高野さんは日本語に訳して歌っていたし。
まあこれはぼくの考えすぎかな。トッド・ラングレンのトリビュートとかではやっぱり英語で歌っているのかも知れないし(実は未聴)。
そういえば、今回のアルバム名「確かな光」というのも、高野さんのソロ・アルバムで日本語のタイトルというのは、今回が初めてですね。
そのあたりにも、微妙な心境の変化を感じ取ってしまう。

大阪廻り舞台

新野新著「大阪廻り舞台」(東方出版)を一読した。
帯に「私的芸能ものがたり」とある。本書は、大阪で放送作家として活躍する著者が、昭和30年代初頭から現在までに手がけた種々の仕事や身辺に起こった出来事を中心に、当時の芸能やスターにまつわる追想を交えて書き記したものだ。
いわば著者の半生記といってさしつかえないだろう。
3年前に出版された同じ著者による「雲の別れ〜面影のミヤコ蝶々」(たる出版)も同様の趣があった。こちらは2000年10月に急逝したミヤコ蝶々と公私共に付き合いのあった著者が、長年にわたる蝶々との思い出を綴ったものだが、ミヤコ蝶々の伝記というよりは、むしろ蝶々というスクリーンを通して著者自身の姿が浮かび上がってくるように思えたものだ。
その点では、今回の「大阪廻り舞台」は、著者の自分史のかたちをとりつつも抑制された筆で記されており、また当時の芸能や放送についての客観的な記述も多い。これは、前著がミヤコ蝶々の死に際して書き下ろされたのに対して、本書は新聞連載を基にまとめられたということにもよるだろう。
大阪キタの北野劇場の演出助手から大阪の芸能界でのキャリアをスタートした著者は、民間テレビ放送の興隆期にコメディーやドラマの台本作家として活躍し、さらにバラエティー番組の構成やラジオのパーソナリティー、テレビタレントと活動の幅を広げながらも、常に大阪の芸能、放送の現場で仕事をしてきた。
著者になじみのない関西圏以外の読者も、本書によって戦後の大阪の芸能史をひとつの視点から俯瞰することができるはずだ。
また、本書の記述から伝わってくるのは、著者の一貫したショウビジネス、舞台芸能に対する愛着であり、失われゆく大阪の芸能文化、放送文化への愛惜の念である。
と、偉そうなことを書き連ねたが、ぼくの大阪の芸能や放送に関する知識は、ほとんどが著者のエッセイや芸能評論によるものなのだ。
改めて残念に感じたことだが、本書の中には、著者が台本や構成を手がけ、あるいは自ら出演したテレビ番組の名前がちりばめられているのだが、そうした大阪制作のテレビ番組のほとんどを、ぼくは見たことがない。
つまり、いわゆる大阪ローカルのテレビ番組は、関西圏以外の地域では、東京だろうとその他の地方だろうと、視聴することがまったく困難なのだ。
番組制作の機能が東京のキー局に集中するようになり、長い不況もあって大阪制作の番組が衰退していく状況を著者は嘆く。
が、一方で著者が落語家の笑福亭鶴瓶と共に続けているインターネットラジオの試みは、放送エリアの限定やキー局、ローカル局といった旧来の放送システムの枠組みを変えていく可能性を秘めている(いまだ可能性に留まっているのが悲しいが)。
願わくは、本書からも垣間見える著者の魔力、いや魅力が、大阪ローカルという枠を超えて全国、全世界に届かんことを祈る。
ところで今日、2月23日は著者の69回目の誕生日。いつまでもお元気でいてください。