
高円寺の「抱瓶」にシカラムータを見に行ってきた。
ライブを聞きながら泡盛をあおっていると、調子に乗ってピッチがどんどん上がり、思ったより回ってしまって翌朝は大変なことになってしまった。
むろん、これはただぼくひとりの問題であり、抱瓶のせいでも、むろんシカラムータが悪いわけでもありません。しかし久しぶりのかなり本格的な二日酔いの朝だったな今日は。いやはや。
ひらきつうしん

高円寺の「抱瓶」にシカラムータを見に行ってきた。
ライブを聞きながら泡盛をあおっていると、調子に乗ってピッチがどんどん上がり、思ったより回ってしまって翌朝は大変なことになってしまった。
むろん、これはただぼくひとりの問題であり、抱瓶のせいでも、むろんシカラムータが悪いわけでもありません。しかし久しぶりのかなり本格的な二日酔いの朝だったな今日は。いやはや。

「〈わたし〉は〈わたし〉である」という命題を見て、もし〈わたし〉が、本当に完全無欠に同一の〈わたし〉だったら、そんなふうに自分自身を突き放して見比べる視点など持ちようがないだろうに。むしろ、これは「〈わたし〉は〈わたし〉なのか?」と疑問形に変えたほうがおさまりがいい。
河原温の電報に打たれた文字「I AM STILL ALIVE ON KAWARA」。一瞬、このONを作家の名前じゃなくて英文の前置詞と勘違いして意味を考えてしまった。我、いまだ生きて河原に在り、と。

去年、森美術館に「六本木クロッシング」展を見に行ったとき、冨谷悦子さんという作家の版画作品に魅了されて、もう顔をくっつけるようにして壁に掲げられた作品を次から次に見ていったことを思い出す。
その時、売店に行ったら彼女の作品をカバーアートに使ったCDを置いていたので、展示室の上気のままにジャケ買いしたのがworld’s end girlfriendだった。
が、この人の音楽はとっくの昔からその筋では評価の高いものだったようだから、今さらぼくが見つけたかのごとく言うことはないのだよね。

音楽のworld’s end girlfriendを目当てに出かけたのだが、これが結構な拾いものだった。
ドキュメントでなく、あくまでフィクション、劇映画として成立させているところがいい。
障害者が出てくる映画というと、それだけで構えてしまって、見に行く前に腰が引けてしまうことが多いのだけど、これは、障害者の映画であって、そうでない。
主演の住田雅清氏がas himselfで登場しながら、それでいて、あくまで役を演じていることで、相対化している。それだけでなく、ある種の普遍性を獲得していると思った。