話はいきなり戦後に飛ぶが、主に実験工房関係の作品を集めた部屋がある。
例えば大辻清司や北代省三の構成的な写真作品などが展示されているのだけど、「近代日本の絵画」って言っておきながら、写真はないだろ、という話になった。
写真だけでなく、天井からは北代氏制作のモビールが吊り下がっている。
戦後の美術を語るには実験工房は外せないから、絵画作品じゃなくても仕方ないんだろう、と納得してさらに順路を進むと、菊畑茂久馬や池田龍雄、松澤宥といった作家たちの作ったヘンテコなオブジェが目に入ってきて、こうなると、案の定といおうか、絵画という括りからはどんどん逸脱してくる。
やはり戦後の美術となると、絵画という枠には納まりきらないのか。
近代日本の絵画、といいつつも、どうしても立体作品を参照せざるを得ない。
しかし。ふと思うんですが、絵画といいつつ立体作品もオッケーなんだったら、彫刻とかはこの範疇に入らないんですか。それこそ彫刻家の人たちは昔っから立体作品を作ってたと思うんですが。
という素朴な疑問が浮かんだのだった。
入場した時にもらったチラシを見ると、
「絵画の物質性が強調されるようになると、やがて平面を越え空間全体に向かうオブジェが登場するようになります」
なるほど。オブジェってのはもともと絵画から生まれたものなんだな。言い換えると、画家の人が作る立体作品がオブジェということになるのかな。
でも、なんかなー。画家の立体作品が絵画の範疇に入ってきて、彫刻家の立体作品が入らないって、それでいいのかな。人を生まれでサベツするようなもんじゃないの。
逆に言えば、彫刻家の描く平面作品というのがあったら、どういう扱いになるのか(彫刻のためのデッサンは描くだろうって言われたけど)。「近代日本の彫刻」って展覧会があったら、そういう作品も出していいのかな。
そういえば、いわゆる近代美術とか現代美術って、だいたいは絵画の領域のお話じゃないですか。彫刻から生まれた新しい流れって、あんまり思いつかない。これは何かわけがあるんですか。
一方で、例えばこないだの「六本木クロッシング」みたいに、現代美術を総花的に集めた展覧会に行くと、ほとんどの作品がインスタレーション形式だったりするでしょう。
ああなると、元は絵画なのかどうなのかなんて、あんまり関係ないような気もするし。
今から50年後くらいに、「近代日本の絵画」みたいな企画展をやるとしたら、どういう感じになるんだろう。果たしてそういう括りができるのかな。
再考:近代日本の絵画でわしも考えた
タダ券があるというので、「再考:近代日本の絵画」という企画展を見に、木場の東京都現代美術館に行ってきた。
この企画は、ここ都現美と上野の東京芸大美術館の2館共同で開催しているのだけど、展示の順番からすれば、先に芸大美術館に行ったほうがよかった、ということに、会場に着いてから気づいた。というわけで、最初の展示室に入ると、いきなり第五章になっているという中途半端な状態だったわけです。
この展示室では、昔の芸大出の画家たちが卒業制作で描いた自画像が壁面にずらっと掛けられている。そういえば、3月に見た「MOTアニュアル2004」で、この部屋の同じ壁に北島敬三さんの「PORTRAITS」という写真作品が展示してあったんだけど、この顔の並びっぷりは、何か企画した人が意識したんでしょうか。ある意味、それぞれがお互いの展示の批評みたいになっているような感じもしないでもないですが。
順路をどんどん行くと、今度は明治期の町並みや人々を描いた作品がいろいろ展示してある。
同じ時代に描かれた油彩画と日本画が並んでいるけれど、どうして油絵で描いた日本人の顔とか日本の風景って、あんなに暗くて重苦しいんですか。あるいは社会批判的な意図でも入っているのか?と勘ぐってしまうくらいなんですが。それなのに、隣りの日本画のほうは、明るくて、軽やかだったりする。女の子も結構かわいいし。これだったらこの時代に住んでもいいなあって思うくらいなんだけど、でも油絵のほうの世界には住みたくないなあ。この差はいったい何なんでしょうね。
というようなことを、同行のTさんに話すと、そのころ日本で絵画を教えていた西洋人が、印象派以前の暗い色調のスタイルの人たちだったから、という。
なるほど。日本人が西洋の美術を学ぼうとして呼んだ外国人がひと世代前の人たちで、それに倣って描いた絵があんな暗いものになってしまった。一方、同時期のヨーロッパの美術は、逆に日本の美術に影響を受けて変容していたわけですね。
ところで印象派に影響を与えたのは、正統的な日本画じゃなくて、大衆的な浮世絵のほうですよね。でもこういう展覧会では、日本画はあっても浮世絵は出てこないというのは、やっぱり芸大では浮世絵をやらないからなのかなあ。
この日本画なんて、ちょっとアニメっぽいですよね。セル画っぽいというか。明治に描かれたものなのに、あんまり古さを感じない。こっちの油彩画のほうは、いかにも古臭く見えるのに。日本画とアニメっていうと、村上隆をふと思ったりしますが、実は昔から日本画ってアニメっぽかったんですね。
(たぶん続く)
live n_ext
久し振りに青山のスパイラルに行ってきた。
いま初台のICCでやっている「ネクスト―メディア・アートの新世代」展の関連企画で、「ライブ・ネクスト」というコンサートをスパイラルホールでやるというので、ノコノコと出かけてきたというわけです。
本展のほうはまだ見ていないし、出演する人たちについてまったく予備知識なしに行ったのだけど、正直言って、思っていたほどあんまり面白くなかった。
と言い切ると、アーティストの人たちに悪いので補足すると、どうもその日、ぼくは体調がいまひとつで、昼間っから眠たくて仕方がなかった。
ということで、今回のライブでも、大音響の中でいきなりウトウトとしてしまったのだが、それがまた最初に出てきたエキソニモという人たちが、光る電球を天井からつるして、振り子みたいに左右にぶらぶらさせるものだから、そういうのを見ているうちに余計に眠たくなったのかも知れない。
今回出てきた6組のうち、印象に残ったのは、徳井直生さん、澤井妙治さん、堀尾寛太さん、といったところ。プロフィール見ると、みんな若いですね・・・。
徳井さんの作品は、思わず、作品、と言ってしまったが、本人が会場のどこかでパフォーマンスをしているのか、よく分からなかった。ライブというよりも、むしろ音が付随した映像作品に見える。音としては静謐なのだけど、映像とあいまって不思議に引き込まれていった。音も絵もすごくよく考えられて作りこまれている、という感じ。それも、作った、という過去形で語られるような一回性のものではなくて、アルゴリズミックなものなんだろうけど。
澤井妙治さんのパフォーマンスは、今回出てきた人たちのなかで、一番体を張ってやっている。マイクに向かってヘンな声を出してものすごく変調させたり、どこでどうしてああいう音を出しているのかよくわからないが、とにかく忙しそうに何かのツマミをひねったり動いたりしている。音的にはむしろアナログ的な感じ。が、それが耳の奥の快と不快のキワキワなところをいじりたおしていく。この人は特に映像は使っていなかった。が、体の動きがあるから映像はなくても別にいい。
最後の堀尾寛太さんは、クリップの切れ端を磁石?でカタカタ言わしたり、色紙をガサガサやってクシャクシャに丸めたり破いたり。それをやっている手元をスクリーンに大写しにしている。それまで出てきた人たちが、やたら大音響だったりノイジーだったりしているのに比べて、日常的なモノがかすかな音をたてる現場をクローズアップするのは、不意をつかれる思いがした。そのうちに、音も映像も実際の動きを一回コンピュータで取り込んだものを微妙にずらしたり加工したりしていて、そのズレ感がいい。
まあ感想はそんなところですかね。この類の音楽というか音響を普段聞きなれていないものだから、的を射たことを言っているか自信がないけど。
物語が、始まる
三十も過ぎると、自分の年を意識することが多い。
老化とまでは言いたくないが、肉体的にピークを超えたんだな、と感じずにはいられない。
例えば、毎朝ひげを剃る。
が、特に人と会う予定のない週末など、二日ほど続けてひげを剃らないときもある。
あるとき、2、3ミリほど伸びたひげ面の顔を鏡に映してみて、あごひげの中に、ほんのわずかだが、白髪のひげが混ざっているのに気づいた。
そうか、そうなのか・・・、という思いがした。
それ以来、白髪に気がつくたびに、毛抜きで抜く習慣がついてしまった。
ま、ひげの白髪などはまだ些細なことだが、何もしないで放っておけば、毛量は少なくなるし、体重は増える。何とか食い止めなければ、と、無駄なあがきをすることになる。
この前の連休は実家に帰っていた。
実家で犬を一匹飼っていて、普段はぼくの母親が世話をしているのだが、帰省したときくらいは、ぼくも餌をやったり散歩に連れ出すこともある。
ぼんやりと犬と遊んでいて、何気なく顔を見ると、犬のひげの中にも白いのが何本か混じっているのに気がついた。
いや、これは、もともとこういう色だったのだろうか?よく覚えていない。
また、犬のひげとヒトのひげが、解剖学的に同じものなのかどうか、それも知らない。
しかし、この犬も、うちに来て5年半ほどになる。
よく、犬の1年は人間の何年分にあたる、という言い方をするけれど、そうすると、うちの犬も人間の年にすると、40近くになっているのだろうか。
とすれば、ひげに白髪が混じっていても、おかしくもない年なのだ。
近所の親戚のうちに行ったら、庭先でそこの飼い犬がぐったりと寝そべっていた。
もうご老体なのだ。息をするのもやっと、という風で、近くに寄ってもほとんど反応がない。
昔は、そのうちの前を通り過ぎるだけでも、ものすごい勢いで吠え立てられたのに。
うちの犬も、いずれはああいう姿を見せるのだろうか。
そもそも、犬とヒトとではライフスパンが違うのだから、犬を飼っていれば、遅かれ早かれ、その死を見届けなければならない(そりゃあ、ぼくだっていつ死ぬかわかったものではないが、それはさて措く)。
犬よりもずっと命の短い動物だっている。例えば、ねずみをペットで飼っている人がいるけれども、生き死にについてはどう思うものなのだろうか。最初から、すぐに死んでしまうものだと割り切って飼うのだろうか。ぼくは飼ったことがないからよくわからない。
犬の場合は、人と心を通じ合っている(ように見える)から、その老いや死について、余計にセンチメンタルになるのかも知れない。
できれば、犬も人間と同じくらい長生きできればいいのに。
でも逆に、もし、犬の寿命が生まれてから1年ということになったら、いったいぼくらはどんな思いをするだろうか。
そんなことを考えていたら、川上弘美の短編「物語が、始まる」を思い出した。
この主人公の女性は、近所の公園で拾ってきた「雛型」と、ひとときの奇妙な生活を送るわけだが、この小説では、本物の人間ではなくて、あくまで「雛型」だったけれど、もし人間の寿命が人によって全然違っていたら、つまり生まれてから少年になり、大人になり、そして老いていくまでの時間が、ある人は1週間だったり、またある人は10年だったり、あるいは千年だったりしたら、人と人はどんなふうに出会って、恋をしたり、一緒に暮らしたりするのだろう。そんなことを思った。
出来心
団子坂下のおせんべい屋さんで柿の種とおせんべいを買ってきた。
この前書いた、タワーレコードのキャンペーンでスケッチ・ショウの二人と坂本龍一が店先でおせんべいやお団子を食べていた店です。
タワーレコードのポスターを見るまでは、何の気なしに店の前を通り過ぎていたのに、さっそくせんべいを買いに行って、ほお、この店かあ、などと感心しているのだから、われながらミーハーだなと思う。
といっても、さすがにせんべいを買うためだけに千駄木まで出かけてきたわけではありません。
おせんべい屋の近所にある谷中カフェに行って、また立川こしらさんの落語会を見てきた。われながら物好きだなあと思う。
取り急ぎ当日のネタの覚え書きをしておく。
まずAVにこしらさんが出演した(そうだ)ときの話をまくらにして、「出来心」。このへんにちょうちん屋ぶら左衛門さんはいらっしゃいますか。ぶら左衛門はおれの親父だよ。って、なんだかよくわかりませんが。そして二本目は、ひたちなかに営業に行ったときの話をまくらにして「寿限無」。
それから今度、吉本興業所属のヨイショなんとかという芸人(誰だ?)と、こしらさんと秋葉監督(誰だ?と思うだろうが)の三人が組んで、コントだか何だかをやるんだかどうだか、という微妙な前説が落語の間にあり。
さて、このサイトを見ると落語に行ってきたという話が多いが、落語のどこが面白いかというと、まあ、言ってしまえば、それほど面白いわけじゃない。
が、これは落語だけじゃなくて、どうも最近、年を取ったせいか、滅多なことでは大笑いしない人になってしまった。
高校生の頃や、大学に入ってすぐの頃は、決してそういうことはなかった。
お笑いの人たちの舞台を見に行って、腹をよじるようにして笑っていた。
まあこのへんの分析はさて措くが、とにかく面白いから、あるいは大笑いするから、といった理由で落語を見に行っているというわけではない。
ではなぜ落語に行くのか。
落語のいいところをひとつ挙げると、寄席や落語会に行って、混んでいて座れないという思いをしたことが滅多にない。
ふらっと出かけても、たいてい席が空いている。チケットを取るのに、何ヶ月前から苦労して予約したりする必要がない。
ではなぜいつも空いているのか。
やっぱり面白くないからですかね。
こんな結論でいいのだろうか。いや、こしらさんの落語は面白いよ(と言っておく)。
馬喰町じゃねえ
連休も終わって、今日から出勤という方も多いだろう。
今年はいい具合に祝日が並んで、カレンダーどおりでも5連休となるし、中には、前後に有給を取って11連休とした人もあるようだ。
ぼくは4月30日に有給を取ったので、29日から5月5日までの7連休ということになった。
7連休、と言葉にしてみれば、そんなに長く休んだのかと思うが、実感としては、過ぎてしまえばあっという間のことである。ま、これは多くの人がそう感じていることだろうが。
5月になって、些細なことだが、実はひとつ困ったことがある。
これまでも何度か書いているが、うちから会社まで歩いて大体5、6分で着く。
これは、自宅に近い勤め先にしたのではなく、今の仕事を始めるにあたって、思い切って勤め先に近いところに引っ越したのだ。
会社までの途中にセブン-イレブンがあって、行き帰りに寄り道していくことが多い。
何を買うかというと、朝はペットボトルのお茶やサンドイッチ、帰りに東スポとか、そんな程度だ。それでも、店の外でオーナーに出会っても挨拶されるくらいだから、こちらの顔も覚えてくれているのだろう。
さて、そのセブン-イレブンが、この4月30日をもって、閉店してしまった。
こうなると、まず毎朝の買い物に困る。
別のコンビニに寄って行こうと思うと、わざわざ遠回りして行かなければならない。これから暑くなって、外に出歩く時間を少しでも短くしたいのに。
それに、毎朝店を覗くのが半ば習慣になっていたので、会社に着いてもなんだか間の抜けた感じがして、どうも腰の据わりが悪い。コンビニというのは、習慣性のあるものだと思う。
しかし、新規に開店するコンビニは多いけれど、閉店するというのは、しかも業界のガリバーであるセブン-イレブンが店を閉めるのはあまりないことなのではないか。
どういう事情があったのか知らないけれど。
店先にオーナーからの張り紙があって、この店は畳むけれど、馬喰町で新しい店を開くからご利用ください、とある。と言っても馬喰町じゃねえ。
紺屋高尾
池袋演芸場の下席昼の部に行ってきた。目当てはトリの林家錦平さんである。
錦平さんといえば、去年の11月にも鈴本でトリを取っていたのだけど、ぼくが見に行く前に鈴本が火事になって休業してしまった。
これまで錦平さんの落語は、鈴本の独演会で1回、ねぎし三平堂で1回、そして黒門亭で2回聞いているけれど、定席のトリというのは、実は初めてだ。
今回の錦平さんのネタは「紺屋高尾」。
絶世の花魁、高尾太夫に一目惚れした紺屋の職人久蔵は、高尾との一夜のために給金を3年がかりで貯めた15両を持って吉原へ向かうが・・・というお話。
いいですねえ。うまいですねえ。
錦平さん、こういう花魁とか、女の人が出てくる噺がいいですねえ。
廓噺といえば、前に錦平さんの「五人廻し」を聞いたことがあるけど、これもよかった。
ただ、五人廻しのときは、客の5人のキャラの演じ分けの驚きというか、上手いなあっていう感じが先に来たけれど、今回の紺屋高尾は、もっと自然に引き込まれていく感じだった。
そういや、微妙に師匠の三平さんのモノマネを入れてましたな。
錦平さん、今度は6月にやはり池袋演芸場で独演会をやるらしいし、5月には黒門亭にも出るみたいだし(きのう届いた東京かわら版に出ていた)、すごく楽しみだ。
錦平さんのプロフィール、インタビュー
http://www02.so-net.ne.jp/~cozyhall/gallery/event/yose/Kinnpei1.html
ちゃんこ対決2
ちゃんこ霧島のちゃんこが、いわゆる「ちゃんこ」という感じがしたと書いたけれど、そのいわゆる「ちゃんこ」ってどんなちゃんこだよ、と聞かれたら、言葉に詰まってしまう。
ただ、大抵の人は頭の中に漠然とした「ちゃんこ像」みたいなものがあるのではないだろうか。味付けとか、具とか、食べるシチュエーションとか。
(しかしひとつの文章の中にこれだけ何度も「ちゃんこ」って言葉を使ったのは初めてだな)
ここで、正しいちゃんことは何かについて、もう少し考えてみることにする。
例えば、ちゃんこ霧島のチラシにはこういう記述がある。
ちゃんこは、相撲料理の総称で
力士の間で食べる食事の事を
「ちゃんこ」とよびます。
相撲部屋によって「ちゃんこ」は異なりますが、
多くは、鳥、魚、野菜などを鍋にして食します。
「鳥、魚、野菜などを鍋にして」食べるだけなら、どこにでもある鍋物と変らないわけで、やはりここは、お相撲さんが食べている、あるいは作っている、という点が大きいのだろう。
パールホテルの和牛ちゃんこが今ひとつのように感じられたのも、これは所詮ホテルの料理だろ、やっぱりちゃんこはお相撲さんのやってる店じゃないとねー、というバイアスがかかっていたことは否めない。
ドイツ文学者で、長く横綱審議委員会の委員長も務めた高橋義孝の随筆から引用する。
さて相撲取りがごそごそやって天丼を作ると、これは天丼ではなくて、歴とした「チャンコ料理」である。つまりチャンコ番が作ればトンカツであろうと天丼であろうと、すべて「チャンコ料理」であり、チャンコ鍋はそのチャンコ料理の一種にすぎないというのである。チャンコ料理の定義には諸説があって定説を得るに至っていないが、今紹介したのが恐らく穏当なチャンコ定義らしい。チャンコはチャン、お父ッちゃんのチャンで、コは愛称または縮小の接尾語であろう。そこで料理番のお父ッちゃんの作る料理がチャンコ料理ということになるらしい。
この定義は、上に挙げたちゃんこ霧島の定義とも矛盾はないだろう。
つまり、正確を期すなら、単に「ちゃんこ」というのではなく、お相撲さんの作る料理の総体をいうなら「ちゃんこ料理」、そのうちの鍋物を指すなら「ちゃんこ鍋」と呼び分けるべきということになる。
ちゃんこ料理屋でコースを頼むと、鍋が出てくる前に前菜も出ればお刺身も出る。
そういう鍋物以外の料理も含めて、ちゃんこ料理ということか。
ちゃんこ対決
もう2週間ほど前になるけれど、両国の江戸東京博物館で「両国にぎわい春祭り」というイベントをやっていたことは、以前も少し書いた。
このイベントの企画で「ちゃんこ対決」というのがあったのだが、なんていうことはない、単にちゃんこ鍋の出店が二軒並んでいるだけで、対決と銘打っているからといって、例えばどっちのちゃんこが美味いかお客さんから投票を募るとか、あるいはどっちの店がたくさん売れたかで勝負を競わせるとか、そういうシビアなものではなかった。言ってみれば、まあ、ぬるい企画である。
ちなみに店を出していたのは、一軒が両国駅前の「ちゃんこ霧島」、もう一軒が「両国パールホテル」。
パールホテルは、和牛ちゃんこ、というのを売りにしており、国産黒毛和牛の肉が入っている、らしい。味付けはしょうゆ味。
一方、霧島のほうは、味噌仕立てのスープに、豚肉とつくね(つみれ?)が入っている。
どちらのちゃんこも一杯5百円、生ビールも一杯5百円。千円札1枚持っていけば、うららかな春の陽気のもと、外の桜など見ながらビール片手にちゃんこが食べられる。
いま思えばいい企画でした。春だけといわず、もっと頻繁にやってくれないかな。今度はまた別のちゃんこ屋が参加してもいい。
さて、このイベントに出店した2種類のちゃんこを、もちろん私は両方とも食べている。
そこで両方食べた私が、あえて今回のちゃんこ対決の勝敗を決めるとすれば、霧島のほうに軍配を上げる。
黒毛和牛って言ったってなー、あんまり有難味が分からないし。なんだか肉そのものっていうより、和牛っていう言葉を味わってるみたいだしね。
もちろん不味いわけではないんだけど。
霧島のちゃんこは、味噌味に、あれはごまの風味なのかな。豚肉に野菜もたっぷりで、鳥と魚貝のつみれ団子もよかった。
いわゆる、ちゃんこ、という感じがしました。
ちゃんこ霧島は、両国駅前の8階建てくらいのビルで営業していて、そのうち2、3フロア除いてあとは全部ちゃんこ屋になっているんだけど、私はまだ行ったことがありません。今度行こう。
野毛飲兵衛ラリー
明日17日夜、横浜の野毛地区一帯で「第3回野毛飲兵衛ラリー」というのが開かれるそうです。
これはひとことで言うと、野毛の飲食店で朝まではしご酒しましょうというイベントで、参加者はあらかじめ5枚綴りのクーポン券を買って、それをラリー参加店に持っていくと、お店が用意するお酒一杯とつまみ一品のセット(ラリーメニュー)と交換してくれる。
一杯飲んでお店を出てもいいし、そこが気に入ったら追加でもう少し飲んでもいい(もちろんこれは別料金)。
残念ながら、私は翌朝早い用事があるので、今回は参加できません。本当に残念だ。
ここで「今回は」と書いたということは、これまで参加したことがあるのかよ、と言われそうだけど、はい、あります。前回参加してきました。
つまり、東京から野毛くんだりまで、ただ、酒を飲むためだけに出かけてきたわけです。
前回、第2回の飲兵衛ラリーは、去る1月30日に開催された。
覚えている方も多いと思うけれど、東急東横線の高島町、桜木町の両駅がこの日をもって廃止になった。野毛といえば、最寄駅は桜木町。ま、前回のラリーは、桜木町駅の終業イベントに乗っかったわけですな。
ということで、実はわたしは、営業終了前後の桜木町駅周辺の喧騒ぶりなんかも、お店を抜け出してノコノコ見に行っているわけです。恥ずかしながら。
その晩は9時ごろから居酒屋やバーを何軒かはしごして、最後はドルフィーというジャズ・バーで朝まで過ごしたのだけど、帰りに横須賀線の電車の中でうとうとしていたら、どうもそれで風邪をひいてしまったようで、その後一週間以上ぐったりとしていた。
まあだから、明日のラリーの参加はやっぱりやめておきます。
野毛飲兵衛ラリー 公式ホームページ
http://www.noge.org/nonbee/