日時:
2004年12月4日(土)-13日(月) 15:00-21:00
※ 12/4(土) 18:00より、ささやかなオープニングパーティーをいたします
会場:
YKK R&Dセンター YKKプラザ
東京都墨田区亀沢3-22-1 (地図)
TEL 03-5610-8040
・JR総武線両国駅東口徒歩17分
・都営地下鉄大江戸線両国駅A2出口徒歩8分
万国博覧会の美術
そもそも、万博で工芸品や美術品の展示というのがピンとこなかった。
万博と聞いてまず思い浮かべるのは、とりあえず1970年の大阪万博を挙げておくけれど、もっとも、ぼくはまだ生まれていない。それでも、生まれてからの後付けの知識が、ぼくなりの大阪万博像を構成している。最近でいうと、去年ICCでやっていたEAT展で、大阪万博で展示されていた作品を再現していたのが印象的だった。
実際に足を運んだ博覧会というと、82年の神戸ポートピア、85年の筑波科学万博というあたりからで、もちろん、どちらもまだ子供のころの話だけど、実際には、このふたつの博覧会の印象が、ぼくの万博イメージのかなりの部分を占めている。
つまり、万博というと、だだっ広い敷地に民間企業や各国政府のパビリオンが建ち並んで、その中では大掛かりなCGやロボットのショウなどが見られるというもの。
そういうイメージが植えつけられてしまっているので、万博の展示品として(どれだけスゴイ品物かはともかくとして)陶器やら漆器やらが並んでいるのを見ると、どうしても違和感があって、万博というより、むしろ見本市とか物産展という感じもする。
まあ、工芸品は昔は日本の一大輸出品だったわけだから、もしかすると、今でいったら車とか電気製品が展示されているようなものかも知れない。とすると、見本市とか物産展みたいという印象も、あながち間違っていないのかも知れないけど。
ただ、今度は工芸品を美術品扱いさせようっていう話になってくるわけでしょう。
工芸品が美術品の範疇に入らないというんだったら、強引に額縁をつけて美術品扱いさせてしまえ、それだったら万博に展示しても文句ないだろ、ということも、シカゴ万博ではあったらしい。
工芸品が美術品なのかどうかというのは別にして、そのエピソード自体は、当時の日本と西洋近代の間の美術概念のズレを示していて、とても興味深いんですが、もうひとつ、ぼくの中では、そうか、万博って美術品を展示するところだったんだ、という再認識というか、軽い驚きがあったわけです。
要するに、万博が美術品を展示する装置として機能していて、しかもそれが美術界にとって一定の権威を持っていたというのが、どうもぼくの万博イメージと合わない。
今回の展覧会でも、その後のブースに行くと、当時の万博に出展されていたヨーロッパの絵画作品が展示してあるけど、逆に、展示から漏れた人たちが、わざわざ万博会場の近くで個展やってたりする。でも、それって、万博をすごく意識してるってことでしょう。
いや、よく考えれば、やっぱり今も昔も万博に美術って不可欠なのか。それこそ、最初に書いた大阪万博でのEATの作品もそうだし。
それでもまだ、万博と美術の関係について、どこか違和感があるのは、多分、万博が、出展企業や政府の扱っている商品の売らんかなの場になっている(というイメージがある)からじゃないかと思う。
つまり、パビリオンの中に入っているモノは売り物で、それに対して、美術品というのは、あくまで美術館の中に入っているモノで、かつ基本的にそれは売り物じゃないよ、という思い込みが(少なくともぼくの中に)あるんじゃないか。
例えば大阪万博でも愛知万博でもいいけど、そこに何か美術作品が展示してあったとしても、それはその美術作品そのものを押してるわけじゃなくて、ほかに展示してある商品を売るための補助的な効果として機能しているという見方になっちゃうんじゃないですか。大阪万博のEATの作品だって、そういう意味では、ペプシ館の、ペプシコーラを売るための範囲内で機能するものだったわけでしょう、きっと。
ちょっと展覧会の本題と違ったかもしれないけど、どうでしょうか。
東京国立博物館 平成館
「世紀の祭典 万国博覧会の美術 〜パリ・ウィーン・シカゴ万博に見る東西の名品〜」
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=4
ピエール・ボナール
損保ジャパン東郷青児美術館にピエール・ボナール展を見に行ってきた。
というのも、どういうわけかこれもタダ券が手元にあって。
ま、とあるプレゼントに気まぐれに応募したら当たっちゃったんですね。
だから、ボナールっていってもよく知らないんですが。
ボナールでござーる、とか言っちゃったりなんかしちゃったりして。
ボナールといえば、ナビ派の人ですよ。奥さん。ナビ派。
ナビ派について調べようと思って、googleで「ナビ派」を検索した。
すると、いきなり「リクナビ派遣」というのが出てきて、リクルートのやってる派遣情報サイトになってしまう。
そんなわけで、結局、ボナールやナビ派についてはまったく予習せずに出かけた。
印象的だったのは、まずは色彩でしょうか。
赤とか青とか緑とか、原色に近い色を、ほとんどパステルカラーって言いたいくらいに明るく使っているのに目を見張りました。
例えば、今回のチケットやチラシになんかに使われている作品「庭」。
これなんか、まあ展示室内の照明の関係もあるのかもしれないけど、陽光の中で奔放に葉や枝を伸ばす植物が、まぶしいくらいに明るく描かれている。
ほの暗い展示室の中にこの作品が現れたときは、息を呑みましたよ。
ところが、あらためてチケットやチラシに印刷してあるのを見ると、実物と全然違うのね。
これが本当に同じ絵なんだろうかと信じられないくらい、暗くて、ちょっと気持ち悪いくらいの色に見える。どうしてこんなに違っちゃうんでしょうね。
あと、色彩のことでいうと、これはナビ派の特徴なのかボナールだけなのかは不勉強で知りませんが、割に、空は青、木は緑、っていう感じの配色をしてる作品があるのね。
えーと、印象派は固有色を否定したということですが、ボナールになると、また違ってきてるんでしょうか。
構図としては、この人はジャポニスムにもすごく影響を受けたということですが、確かに、平面的な、言い換えると浮世絵ふうの遠近法みたいな構図がいくつかありました。このへんはあえて言うまでもないんだろうけど。
主題は、部屋の中とか、庭の様子とか、静物とか、裸婦なんかが多かったですね。
あと、ポスターとか家具のデザイン画(これがまた日本風なデザインですね)も手がけているのは興味深かったです。
くだらない話ですが、裸の女の人が黒いブーツ(あるいは靴下?)を履こうとしている絵があったんですが、あれは一体どういう状況なんでしょうか。
全裸の状態からいきなり黒いブーツですよ。仮に靴下だとしてもおかしいでしょう。
普通は、全裸だったらまずパンツを履くんじゃない。
だからこれは、女性の自然なふるまいを観察したっていうより、そういうふうに作家がモデルに指示したんですかね。
「はい、まず洋服脱いでそこに座って」
「全部ですか?」
「全部」
「・・・脱ぎました」
「そしたら、そこにある黒いブーツ履いて」
「はい」
みたいな感じで。いやーなんかヤラシイなー。
すいませんちょっと暴走しました。
「ピエール・ボナール ―彩られた日常」
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/013.html
案の定もう会期は終わっています
ネクスト:メディア・アートの新世代 その2
もう会期は終わっちゃったけど、ICCの「ネクスト:メディア・アートの新世代」展の覚え書きの続きをしておく。
なぜマメに覚え書きをしておくかっていうと、書いとかないとすぐ忘れちゃうからです。
中居伊織さん。タブレットに六本木やICCのある初台の地図が彫ってあって、そこをペンでなぞると、ヘッドホンからその場所のサウンドスケープが流れる。だから、通りに沿ってペンを動かすと、頭の中にその町を移動しているみたいな音像が広がるのね。言い換えると、音で書いた地図みたいな感じじゃない。いわゆる普通の地図が、その町の、ある時点の視覚を固定したものだとしたら、これはある時点の聴覚を固定したものといえるのでは。今は、普通の地図だってどんどん古くなって使えなくなるしね。
山本努武さん。机の上にペットボトルのエビアンがたくさん並べてあって、観客はそれを勝手に並べ替えて好きな形を作ることができる。で、正面に置かれたスクリーンでもその机の周囲が映し出されているんだけど、時間がズレてるのね。ほかの誰かがエビアンを並べ替えている映像が映っている。その中に一瞬、リアルタイムの自分の姿も重なるんだけど。後から来る誰かが、今度はぼくの映像の中に自分の姿が重なるのを見るんだろう。
橋本典久さん。なんていうんでしょうか、ICCのギャラリーA の360度全方位を一枚の円形の写真に合成している。地図の正距方位図法と同じようなやり方なのかな。よくわからない。で、ICCのロビーに出ると、テーブルの上に地球儀くらいの大きさの球体が置いてあって、それはロビーの中の全方位を表面に写した球体なのね。手に取ると、ある意味、全世界を閉じ込めた球体を手にしているよう。昔、赤瀬川原平さんが、カニ缶のラベルをはがして缶の内側に張り替えたのを思い出した。そういう反転しているような感覚。
るさんちまんという人たち。最初は、よく分かんなかったんです。白い壁の部屋の中に、100円ショップで売ってる品物でジオラマみたいに作ってあって、それだけのことかと思った。ところが、その部屋の様子を、コンピュータでコントロールされてるんだろうけど、自動的に動くビデオカメラが中から撮影していて、カメラが切り替わったり、パンしたり、エフェクトがかかったりという映像が、部屋の外側の壁面に投影されている。その部屋全体が、100円ショップの商品を材料に、自動的に映画を生成する装置ということなんだね。そう考えると、面白いと思った。
抜けている人もいますが、これでおしまいにします。
ICC Online
http://www.ntticc.or.jp/Schedule/2004/n_ext/index_j.html
ネクスト:メディア・アートの新世代
ICCの「ネクスト:メディア・アートの新世代」展を見に行ってきた。
この企画展のことは前にも少し書いたけれど、あれは関連企画のコンサートに行ってきたという話で、本展のほうはまだ見てませんでした。会期ももうすぐ終わっちゃうし。
この展覧会は、学芸員さん5人が、それぞれお奨めの作家を推薦して出展作家を選んだそうだけど、ICCだけじゃなくていろんな美術館の人が参加しているんですね。
で、そういう選び方をしたものだから、この企画を貫く大きなテーマみたいなものはないような感じ。今生きのいい作家さんたちを選んだということなんでしょう。だいたい30代半ばくらいまでの人たちか。
みんな若いんですよねえ。私もいい年して老骨に鞭打ってあたふたと動いてますが、作家さんたちの年齢を自分がいつの間にか追い越し始めているのにふと気づく。ああ今まで自分は何やってきたんだろ。
気を取り直して、いつものごとく印象に残った人たちの覚え書きをしておきましょうか。
安藤孝浩さん。光というのは粒子でありかつ波動だそうですが。などと浅学な私が書いてもしょうがないんで、もうやめますが、この人の作品では、光電子増幅管を使って、光子のひとつぶひとつぶを目に見えるようにしたり、音に聞けるようにしている。ちょっと違いますが(多分)、スティル・ライフをふと思い出しました。チェレンコフ光。そう池澤夏樹ですよ山田さん。
大畑彩さん。左手にコードのついたグローブみたいなのを着けさせられて、がらんとした部屋の中に放り出されます。その部屋の中を架空の物体みたいなのが動き回ってるらしくて、それは体験者の目には見えないんだけど、左手がその物体に近づくと振動と音で分かるんですね。聴覚と触角に特化した、一種のVRといっていいのかな。で、そうやってその物体を捕まえようと部屋の中を右往左往してるんですが、多分傍から見てると、ものすごくナサケナイ光景だと思う。
齋藤正和さん。この人の作品は、展示室の間のロビーにさりげなく置いてあるんですが、大きいテレビモニターが左右に二つあって、その間に小さいモニターが三つある。それをベンチに腰掛けて見るんだけど、このポジションだと、一瞬、普通のリビングでテレビを見てる感じなのね。で、映っている映像は、もともと用意してたのと、ちょうど今やってる地上波の放送をまぜこぜにしていて、例えば、新婚さんいらっしゃいと囲碁中継と環境映像ふうのイメージが不意に重なり合うという。不思議に引き込まれる。
澤井妙治+城一裕+真鍋大度の各氏の合作。この澤井妙治さんは、例のコンサートにも出てた人ですね。ICCの中には、無響室っていうんだっけ、壁面が音の反響を吸収してしまうように作ってある小部屋がありますが、そこで体験する、音と振動だけの作品。今までもこの部屋を使った作品は何度か体験したことがありますが、その中でも一番この場所に合っているかも。映像とか余計なものがないのがいい。大音響が左右の耳の間の後ろのほうで物質化して浮かんでいるような感じ。前のコンサートのときもそんな感じがしたけど、音響が純化されていることで、また違った味わい。
ええっと、今日のところはここまで。気が向いたらまた続きを書きます。
ICC Online
http://www.ntticc.or.jp/Schedule/2004/n_ext/index_j.html
再考:近代日本の絵画でわしも考えた その2
話はいきなり戦後に飛ぶが、主に実験工房関係の作品を集めた部屋がある。
例えば大辻清司や北代省三の構成的な写真作品などが展示されているのだけど、「近代日本の絵画」って言っておきながら、写真はないだろ、という話になった。
写真だけでなく、天井からは北代氏制作のモビールが吊り下がっている。
戦後の美術を語るには実験工房は外せないから、絵画作品じゃなくても仕方ないんだろう、と納得してさらに順路を進むと、菊畑茂久馬や池田龍雄、松澤宥といった作家たちの作ったヘンテコなオブジェが目に入ってきて、こうなると、案の定といおうか、絵画という括りからはどんどん逸脱してくる。
やはり戦後の美術となると、絵画という枠には納まりきらないのか。
近代日本の絵画、といいつつも、どうしても立体作品を参照せざるを得ない。
しかし。ふと思うんですが、絵画といいつつ立体作品もオッケーなんだったら、彫刻とかはこの範疇に入らないんですか。それこそ彫刻家の人たちは昔っから立体作品を作ってたと思うんですが。
という素朴な疑問が浮かんだのだった。
入場した時にもらったチラシを見ると、
「絵画の物質性が強調されるようになると、やがて平面を越え空間全体に向かうオブジェが登場するようになります」
なるほど。オブジェってのはもともと絵画から生まれたものなんだな。言い換えると、画家の人が作る立体作品がオブジェということになるのかな。
でも、なんかなー。画家の立体作品が絵画の範疇に入ってきて、彫刻家の立体作品が入らないって、それでいいのかな。人を生まれでサベツするようなもんじゃないの。
逆に言えば、彫刻家の描く平面作品というのがあったら、どういう扱いになるのか(彫刻のためのデッサンは描くだろうって言われたけど)。「近代日本の彫刻」って展覧会があったら、そういう作品も出していいのかな。
そういえば、いわゆる近代美術とか現代美術って、だいたいは絵画の領域のお話じゃないですか。彫刻から生まれた新しい流れって、あんまり思いつかない。これは何かわけがあるんですか。
一方で、例えばこないだの「六本木クロッシング」みたいに、現代美術を総花的に集めた展覧会に行くと、ほとんどの作品がインスタレーション形式だったりするでしょう。
ああなると、元は絵画なのかどうなのかなんて、あんまり関係ないような気もするし。
今から50年後くらいに、「近代日本の絵画」みたいな企画展をやるとしたら、どういう感じになるんだろう。果たしてそういう括りができるのかな。
再考:近代日本の絵画でわしも考えた
タダ券があるというので、「再考:近代日本の絵画」という企画展を見に、木場の東京都現代美術館に行ってきた。
この企画は、ここ都現美と上野の東京芸大美術館の2館共同で開催しているのだけど、展示の順番からすれば、先に芸大美術館に行ったほうがよかった、ということに、会場に着いてから気づいた。というわけで、最初の展示室に入ると、いきなり第五章になっているという中途半端な状態だったわけです。
この展示室では、昔の芸大出の画家たちが卒業制作で描いた自画像が壁面にずらっと掛けられている。そういえば、3月に見た「MOTアニュアル2004」で、この部屋の同じ壁に北島敬三さんの「PORTRAITS」という写真作品が展示してあったんだけど、この顔の並びっぷりは、何か企画した人が意識したんでしょうか。ある意味、それぞれがお互いの展示の批評みたいになっているような感じもしないでもないですが。
順路をどんどん行くと、今度は明治期の町並みや人々を描いた作品がいろいろ展示してある。
同じ時代に描かれた油彩画と日本画が並んでいるけれど、どうして油絵で描いた日本人の顔とか日本の風景って、あんなに暗くて重苦しいんですか。あるいは社会批判的な意図でも入っているのか?と勘ぐってしまうくらいなんですが。それなのに、隣りの日本画のほうは、明るくて、軽やかだったりする。女の子も結構かわいいし。これだったらこの時代に住んでもいいなあって思うくらいなんだけど、でも油絵のほうの世界には住みたくないなあ。この差はいったい何なんでしょうね。
というようなことを、同行のTさんに話すと、そのころ日本で絵画を教えていた西洋人が、印象派以前の暗い色調のスタイルの人たちだったから、という。
なるほど。日本人が西洋の美術を学ぼうとして呼んだ外国人がひと世代前の人たちで、それに倣って描いた絵があんな暗いものになってしまった。一方、同時期のヨーロッパの美術は、逆に日本の美術に影響を受けて変容していたわけですね。
ところで印象派に影響を与えたのは、正統的な日本画じゃなくて、大衆的な浮世絵のほうですよね。でもこういう展覧会では、日本画はあっても浮世絵は出てこないというのは、やっぱり芸大では浮世絵をやらないからなのかなあ。
この日本画なんて、ちょっとアニメっぽいですよね。セル画っぽいというか。明治に描かれたものなのに、あんまり古さを感じない。こっちの油彩画のほうは、いかにも古臭く見えるのに。日本画とアニメっていうと、村上隆をふと思ったりしますが、実は昔から日本画ってアニメっぽかったんですね。
(たぶん続く)
live n_ext
久し振りに青山のスパイラルに行ってきた。
いま初台のICCでやっている「ネクスト―メディア・アートの新世代」展の関連企画で、「ライブ・ネクスト」というコンサートをスパイラルホールでやるというので、ノコノコと出かけてきたというわけです。
本展のほうはまだ見ていないし、出演する人たちについてまったく予備知識なしに行ったのだけど、正直言って、思っていたほどあんまり面白くなかった。
と言い切ると、アーティストの人たちに悪いので補足すると、どうもその日、ぼくは体調がいまひとつで、昼間っから眠たくて仕方がなかった。
ということで、今回のライブでも、大音響の中でいきなりウトウトとしてしまったのだが、それがまた最初に出てきたエキソニモという人たちが、光る電球を天井からつるして、振り子みたいに左右にぶらぶらさせるものだから、そういうのを見ているうちに余計に眠たくなったのかも知れない。
今回出てきた6組のうち、印象に残ったのは、徳井直生さん、澤井妙治さん、堀尾寛太さん、といったところ。プロフィール見ると、みんな若いですね・・・。
徳井さんの作品は、思わず、作品、と言ってしまったが、本人が会場のどこかでパフォーマンスをしているのか、よく分からなかった。ライブというよりも、むしろ音が付随した映像作品に見える。音としては静謐なのだけど、映像とあいまって不思議に引き込まれていった。音も絵もすごくよく考えられて作りこまれている、という感じ。それも、作った、という過去形で語られるような一回性のものではなくて、アルゴリズミックなものなんだろうけど。
澤井妙治さんのパフォーマンスは、今回出てきた人たちのなかで、一番体を張ってやっている。マイクに向かってヘンな声を出してものすごく変調させたり、どこでどうしてああいう音を出しているのかよくわからないが、とにかく忙しそうに何かのツマミをひねったり動いたりしている。音的にはむしろアナログ的な感じ。が、それが耳の奥の快と不快のキワキワなところをいじりたおしていく。この人は特に映像は使っていなかった。が、体の動きがあるから映像はなくても別にいい。
最後の堀尾寛太さんは、クリップの切れ端を磁石?でカタカタ言わしたり、色紙をガサガサやってクシャクシャに丸めたり破いたり。それをやっている手元をスクリーンに大写しにしている。それまで出てきた人たちが、やたら大音響だったりノイジーだったりしているのに比べて、日常的なモノがかすかな音をたてる現場をクローズアップするのは、不意をつかれる思いがした。そのうちに、音も映像も実際の動きを一回コンピュータで取り込んだものを微妙にずらしたり加工したりしていて、そのズレ感がいい。
まあ感想はそんなところですかね。この類の音楽というか音響を普段聞きなれていないものだから、的を射たことを言っているか自信がないけど。
マイ・マイ、ヘイ・ヘイ
東京オペラシティアートギャラリーの「タイム・オブ・マイ・ライフ ─ 永遠の少年たち 」展を見てきた。
展示作品のひとつ、奈良美智のインスタレーション「S.M.L.」の「M」のほうの部屋に入ったら、この部屋の中には奈良の描きかけの作品や落書きのようなメモなどがたくさん散らばっていて、まるで作家のアトリエみたいな感じなのだけど、ちょうどラジカセでニール・ヤングの「マイ・マイ、ヘイ・ヘイ」が掛かっていて、おお、いいなあと思ってしばらく聴いていた。
それで、その曲が入っているアルバム「ラスト・ネヴァー・スリープス」をアマゾンで取り寄せていたのが届いたので、週末から繰り返し聞いているところ。
と、書いたけれど、実は順番がちょっと違っていて、正直言うと、最初はこの曲がニール・ヤングということは知らなかった。
インスタレーションの中で聴いているときに、ひょっとしてこの声はニール・ヤングじゃないかな、と思って、うちに帰ってからgoogleで「ニール・ヤング」という言葉と歌詞の文句を組み合わせていろいろ検索して調べたら、やっぱりそうだった。
その昔。今から10年以上前になりますか。
テレビ東京でモグラネグラという音楽番組を深夜の時間に帯で放送していて、何曜日だったか忘れたけれど、ある曜日の司会が、プライベーツの延原達治とフェビアンの古賀森男だった。って懐かしいなー。
この文章を書くまでは、ご両人の名前もバンド名も、申し訳ないけど10年以上頭の中からすっかり消えてましたよ。
それで、ある時、番組の冒頭で、延原氏と古賀氏の二人がギターの弾き語りで歌っていたのが、この「マイ・マイ、ヘイ・ヘイ」だった。それが非常に印象的で。
確かその回は、高橋幸宏氏がゲストで、それでビデオに撮って見ていたという記憶がある。そのビデオも実家に帰れば残っているのかな。
ともあれ、それ以来しばらく、この曲のメロディーや歌詞が頭の中から離れなくて、でも、その頃はインターネットなんてなかったし、ニール・ヤングも「ハーヴェスト」しか持っていなかったから、ずっと誰の曲だか知らないままだった。
それが、もう10何年かかって、奈良氏のおかげで再会することができたという話。
円山応挙展
やたら寒い日でしたな。
江戸東京博物館に円山応挙展を見に行ってきました。
もともと近現代の作品ばかり見ているのに、また日本画など旧弊なものと思い込んでいるくせに、今回応挙展に足を運んだのは、たまたま懸賞でタダ券が当たったからです。
ま、というわけだけでもないんですが。
わが家から江戸東京博物館まで、徒歩で10分、いや5分くらいかな。
そんな近くにあるのに、3年半前に引っ越して来てからこの方、博物館の中に入ったことがなかった。
ほぼ毎日のように、この巨大な、ホワイトベースみたいな建築物を見上げていたのに。
いつでも行けると思うと、いざ行こうとはなかなか決心がつかないものです。
しかしまあ、そういう尻込みや食べず嫌いは無用なものだと改めて感じました。
いやまず驚いたのは、応挙展のものすごい客入りですね。
会期も今日、明日で終わるということもあるのだろうけど、入場制限しなきゃいけないくらい、入口前に客の行列ができている。
テレビかなにかで宣伝してたんでしょうかねえ。
ようやく展示室に入っても、人がすごくて全然先に進まない。
おかげで、ひとつひとつの作品を時間をかけて見ることができたというケガの功名はあったわけだけど。
展示作品自体の感想については、控えることにします。恥ずかしいから。
応挙の作品がどうというより、すごい基本的なところに驚いたり感心したりするんですよね。
多分日本美術史とか日本画に詳しい人には笑われちゃうんだろうけど。
例えば鶏とか鶴とかを細密な彩色画で描いてるのと、雨に煙る竹林や雪の積もった梅を描いた墨画とは、作風が全然違うわけじゃないですか。
ああいうの、ひとりの作家の中で矛盾なく融合してたんだなあとか。
あと、襖絵なんかでも、襖自体の形が今の時代にないような縦横比だったり、最初襖に描かれてた梅の枝がどんどん伸びて、襖からはみ出て掛け軸になったり。
なんかその、媒体の使い方が野放図ですよね。
それから全然関心のポイントが応挙と関係ないんだけど、日本画って、襖絵とか、屏風とか、掛け軸とか、基本的に作品が移動可能でしょう。
西洋の古典絵画だと、壁画とか天井とか、その場所に固定したものが多いんじゃないの。
掛け軸だと、巻いてまたどこか別のところに掛けたりとか、モバイルだよね。
なんだっけ、今回の応挙の作品でも、掛け軸を5、6幅、それもかなり幅広の軸を使って、それ全体で巨大な波しぶきを描いているようなのがあったけど、あれを分割して掛け軸の作品にする意味というのが、よくわかんない。一枚の巨大な作品、という概念がないのかな。
逆にいえば、巨大な作品を掛け軸の形で移動可能にしているというのが、なんかすごいな。ポータブルな大作。モバイル絵画。
西洋画だと、そういう作品のありかたってないんじゃないのかねえ。
あと虎ね。
虎って、江戸時代の人って、実物を見たことは、まあないわけでしょう。
今回の作品のキャプションによると、長崎経由で入ってきた虎の毛皮なんかで毛並みを研究したらしいけど、虎の実際の動きや表情は想像で描いたわけなんでしょ。
だから、虎を描くのも龍を描くのも、江戸時代の人にとってはあまり距離がないことなんじゃないかな、とか。
実際、動きとか表情が、ぼくらのなんとなく知っている虎とは別なんですよね。
リアリズムというのが、今ぼくらの思うリアリズムとは違うと言おうか。要するに、動物や自然の動きを写真でパチリと撮ったのがリアリズムというのとは、ちょっと違う気がする。
鶴の一瞬の動きや滝の水しぶきを描いた作品を見て、写真もないのによくこれだけ描けるなあとか思ってしまうけれど、おそらくそれは話が逆で、江戸時代の人は写真というものが念頭にないところから出発しているわけだから、動きを写し取るということについて、今のぼくらとは違う考え方があるはずなんだ。
うまく言えないけど、観念としての動きを描いているみたいなところがあるんじゃないの。
で、それが見るものの持ってる観念とピタッと一致して、そこにリアリティや驚きの発生があるみたいな。
鶴にしても、いま写真に撮った鶴を見せられたら、案外応挙の描いた鶴と違ってるんじゃないか。それでも、絵と向き合っている分にはそこにリアルを感じるのは、ぼくらの持っている鶴の観念と応挙の時代の鶴の観念とは、あまり距離がないからだと思う。
ところが虎なんかはそこに距離ができてしまった例で、応挙が描いてる虎にしても、さっき言ったように姿勢とか表情とか目の色とかどこかヘンで、哺乳類というより爬虫類的に見えてしまうんだけど、今のぼくらは写真や映像で実際の虎のイメージをさんざん見ているからそう見えるのであって、江戸時代の人は、あれでものすごいリアリティが掻き立てられたんだろうと思う。
そういう意味では、鶴や鶏を描くのも、虎や龍を描くのも、あるいは幽霊を描くのも、どれもみんな写生で、並列なことなんだろうね。
うーん、でも日本画も見たら見たで面白いねえ。
現代の日本画だと、例えば平山郁夫とか聞くと、それだけで否定的なところから入っちゃうところがあるじゃないですか。
単に日本画の画材を使ってるってだけで、絵そのものはツマンナイだろとか。
でも、少なくとも江戸時代の日本画は面白いね。
今回の応挙とかが日本画の歴史的にひとつのピークだったのかもしれないけど。
あと芸大の日本画科卒で現代美術の作家やっている人って結構いますよね。村上隆とか。
それから日本画の手法っていうか、約束事を使っている人いますよね。山口晃とか。
こないだも、木場の現代美術館で山口晃の作品を見てきたんだけど、中西夏之の公開制作の様子を一枚の巻物絵みたいにしたのとか、完成作品とその下絵を対で展示してあるのとか、面白いねえ。
そういうことでいうと、いま手元に美術手帖の2月号があるんだけど、ここで紹介されてるローラ・オーウェンスの花鳥画? 彼らの作品のほうが、今のいわゆる日本画より、応挙との距離が近いように思える。
最後に、江戸東京博物館は、常設展示見ごたえあるねえ。
ものすごいボリューム。あれだったら、朝から入って、一旦外でお昼食べて、再入場して、それで一日じっくり楽しめるよ。
自分のごく身近にあんなものがあったとは。もうお腹いっぱいです。